1月24日、センバツ出場校が発表される午後3時を迎えると、ほどなくして校長室の電話が鳴った。21世紀枠でのセンバツ出場の吉報を知らされると、平田(島根)を率いる植田悟(うえだ・さとる)は喜びを噛みしめ、静かに微笑みながらつぶやいた。

「待つのは少しばかり慣れたんですが、選ばれるのは初めてなので、やっぱり慣れませんね」

 平田が21世紀枠の中国地区推薦校となるのは、2015、2018年に続いて、今回が3度目。過去2回はいずれも補欠校だった。植田自身も21世紀枠出場の結果を待つのは、前任の出雲を率いた2016年、平田の監督として迎えた2019年、そして今回で通算3度目。平田にとっても、植田にとっても”三度目の正直”を期したタイミングで、春の便りを手にした。



2017年春に母校である平田高校の監督に就任した植田悟氏

 平田は今回が春夏通じて甲子園初出場。2度の21世紀枠補欠校だけでなく、前年秋の中国大会で8強入りして吉報を待った1986年も中国地区の補欠校。同年夏の島根大会で決勝まで勝ち進んだものの、浜田商に1−2の惜敗。”あと一歩”が遠かった。

 植田も平田で甲子園を目指したひとりだった。下級生時代から中軸に座り、島根県内で存在感を示したが、3年夏の県4強が最高成績。選手としての出場は叶わなかった。

 夢を絶たれた悔しさが残っていた植田に、当時の監督だった錦織正実は、こう語りかけたという。

「体育の教員免許を取って、高校野球の指導者になりなさい。そして、平田を甲子園に連れていくんだ」

 日体大を志望校に定め、一浪の末に入学。在学中は軟式野球部に所属し、3、4年時は全国制覇を果たした。

 大学卒後、教員採用試験を突破し、島根へと戻った。江津工の監督、邇摩(にま)の部長をそれぞれ4年、松江北で監督を8年。江津工時代に秋4強、松江北時代には秋3位での中国大会出場を果たすなど、一定の結果は残していたが、依然として甲子園には距離があった。
 
 2012年に出雲へ異動し、指導者生活19年目に突入した2014年の春、不惑を超えたタイミングで、植田の心境に大きな変化が生まれた。

「その年に42歳なりました。教員になったのが24歳の時なので、定年までちょうど半分を過ぎたタイミング。仮に80歳まで生きられるとすると、残りの人生も約半分。そういった年齢を迎えて、『このままの指導でいいのだろうか。これで本当に甲子園に行けるのか』という思いが強くなっていったんです。もう一度自分の指導観を振り返らなければならないと」

 当時の植田は、「私立に負けない身体と打力に鍛え上げて勝つ」野球を目指していた。高校時代は中軸を打ち、主軸打者として活躍した大学時代は全国優勝。”スラッガー”として野球人生を過ごした植田にとって、ある種必然的なことだった。

 自身の年齢と勝ちあぐねていた日々に加えて、公立勢全体が苦戦を強いられていた県内の情勢も、野球観を省みるきっかけとなった。

「当時は、私立校の夏の甲子園出場が9年間続いている状況でした。決して選手の能力が低くない公立のチームもあるんですが、力勝負にこだわった結果、私立に跳ね返されている。その状況を見て、『私立とは違う野球をしないと勝てないのでは』という気持ちが強くなっていったんです」

 いま一度、「選手個々の能力、確保できる練習量ともに私立校とは差がある。そういった状況で何を優先して鍛えるべきか」を熟考。打撃ではなく、走塁と守備の強化に時間を割く方針転換を決意した。大幅なスタイルチェンジに合わせて、学びの方法も変革していった。

「この時期から今まで以上に読書に時間を割くようになりました。それまでは、他校に勉強に行かせてもらう時も、私立の甲子園常連校にばかり目を向けていました。”名将”と呼ばれる方々の言葉に触れただけで満足してしまっていたんです。でも、それだけでは意味がない。自分たちと近い環境で練習しているチームからヒントを得ようと考えをあらためました」

 まず足を運んだのが、加古川北(兵庫)を2度甲子園に導いた福村順一が監督を務める東播磨(兵庫)だった。

「加古川北が甲子園で見せたレベルの高い走塁技術を学びたいと思って、福村先生に連絡させていただきました。当時、福村先生は東播磨に赴任した直後で、『まだできていないことばかりで、練習のための練習をやっている段階なんです』とおっしゃっていたんですが、僕としては、むしろその状況がよかった。選手たちに知識が浸透していないなかで、どうやって走塁を身につけさせるかを勉強させてもらいました」

 方針転換の成果は着実に表われ始める。2014年の秋、県大会3回戦で立正大淞南と延長15回の激戦を繰り広げ、7−8で惜敗したが、最終的に立正大淞南は秋の県大会を制覇。優勝校相手に接戦を演じ、新しい野球への手応えを深めていった。

 翌2015年春は、同年夏に甲子園出場を果たす石見智翠館に1−0の完封勝ち。同年秋は県3位で中国大会出場、自身2度目の中国大会で初勝利を挙げた。センバツ出場は成らなかったものの、21世紀枠の中国推薦校にも選ばれた。

 そして2016年夏、植田が築き上げた新しい野球が結実する。

 6試合を戦い、23個の犠打と18回の盗塁を記録して、島根大会優勝。準々決勝では、9回にサヨナラスクイズで益田東を下すなど、小技を効果的に絡めた攻撃で、出雲にとって創部初の甲子園出場を果たした。

 県内公立校の夏の甲子園出場は、2004年の浜田以来12年ぶり。長く閉ざされていた扉を、植田の野球がこじ開けた。

 甲子園出場を置き土産に、2017年春の人事異動で母校である平田へ。異動時の心境と経緯をこう振り返る。

「2012年から出雲で監督をして、甲子園に出た年が5年目。まだ出雲にいることもできる年次でもありましたが、自分の年齢を考えると、次の異動が母校に戻る最後のチャンスかもしれない。下級生の選手たちも残っていて、心苦しい思いもありましたが、転勤希望を出させてもらいました」

 平田側の異動のタイミングも重なり、転勤希望は通った。恩師との約束である「母校の監督として甲子園に行く」という目標に挑戦することとなった。

 出雲時代に構築した緻密な野球に磨きをかけ、2018年春に県4強、同年秋は県準優勝で中国大会に出場。そして、昨秋は2年連続の県準優勝、中国大会でも初戦突破。着実に結果を積み上げ、就任丸3年で甲子園出場切符を掴んだ。

 現チームは、「打者が走者の進塁を助け、走者は塁上から相手バッテリーを揺さぶり、打者を助ける」組織的な攻撃と、「バッテリーの配球に合わせて、野手陣がシフトを敷き、アウトを奪っていく」守備を信条としている。攻撃は”走打連動”、守りは”攻めの守備”と名づけ、チームに浸透させている。植田が言う。

「出雲で甲子園に出た時は、野手に1番を打った橋本典之(現・慶応義塾大)がいて、投手陣にも原暁、加藤雅彦(ともに関西学院大)の計算できる左右の投手がいました。その時のチームと比べると、個の力が劣っている分、より選手同士の力を掛け合わせていくことが必要になる。出雲時代は”走打連携”と言っていましたが、よりつながりを重視する意味合いで”走打連動”としています」

“攻めの守備”の解説はこうだ。

「野球以外の多くの球技では、ボールを持っている側が攻撃の立場。こちらがボールを持つ野球の守備においても、同じように攻めていく意識が不可欠だと思い、”攻めの守備”を掲げています」

 自身2度目となる聖地での采配についても、こう意気込みを語る。

「最初に夏に出場した時は、県大会が終わってあっという間に初戦を迎えてしまった感覚でした。自分自身が甲子園のことをまったくわかっていなかったし、十分な準備ができなかった。今回は、その時に比べると時間があるので、選手たちの力を十分に引き出せるように準備をしていきたいと思います」

 自分の野球を省みた2014年、野球関連の本だけでなく、小説に触れる機会も増やしたそうだ。愛読書は池井戸潤作品で、「弱者が強者に勝つストーリー。そこがいいですよね」という理由だ。

 不惑を超え、自身の野球を再構築した知将は、「強者を倒す」筋書きを準備し、母校の指揮官として再び甲子園に乗り込む。