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連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第8回:大矢明彦(後編)

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 大矢が手塩にかけて育てた谷繁元信はその後、2001年にFA宣言。メジャーも視野にいれながら、結果、中日ドラゴンズに移籍する。すでに大矢が、ベイスターズを退団してから、4年が経過していたが、谷繁はこの恩師に相談の電話をかけてきた。



大矢(右)は、石井琢朗(左)をサードからショートにコンバートした

「そこでたいしたことは話していません。ドラゴンズもそんなに(返事を長く)待てないということだったので、『中日で頑張ったらいいんじゃない?』というアドバイスはしました。あとは、彼が中日に行って、自分の力で正捕手として本当に苦労しながら一流の道を歩いて行ったわけです」

 話は遡るが、監督時代の大矢が着手をしたのは、内野のコンバート。これも一つの大きな手術であった。サードの石井琢朗をショートに、ショートにいた進藤達哉をセカンドに、セカンドにいたローズをサードに配置転換したのである。ファーストの駒田徳広を除いてすべてを一回転させた。

 最終的には進藤がサード、ローズがセカンドに戻ったものの、捕手谷繁と石井をショートにコンバートをしたこのベイスターズの新しい布陣が結果的に1998年に全員ゴールデングラブを受賞する。まさに鉄壁の内野陣が完成した。

 サードで3年連続ゴールデングラブを受賞していた石井を動かすことには、内部でも反対もあったが、これもまた大矢の英断であった。

「コンバートをやった一番の理由は、自分が監督を引き受けた時に、ベイスターズに目玉がなかったということなんです。いい選手で、ファンの人に喜んでもらえるような、そういう目玉の選手を何人か作りたかった。その上で、センターラインもしっかりさせたいというのがあったんです。

 石井はその前の年、95年に三塁手で3割打って、やっとレギュラーになった選手でした。だけど、三塁手で3割打ったぐらいでは、一流と認めてもらえないんです。あの当時は広島に江藤(智)がいたしね。

 同じサードにホームランをバンバン打つ選手がいるわけだから、逆立ちしたってベストナインは取れない。でもショートだったら取れるんじゃないか?と考えたわけです。30盗塁して、3割打って、守備範囲が広くなって。これは石井をチームの中の顔として、ショートだったら売り出せるなというのが一番に頭にあったんです」

 石井は元投手である。ショートに必要な肩の強さは折り紙付きであるが、選手たちはどのように受け止めていたのであろうか。

「僕は先に進藤に話をしました。『進藤、俺はこういうふうにやりたいんだけど、お前、守備位置動いてくれるか?』と。進藤は抜群のショートストップでしたからね。彼がやると言ってくれなければできないコンバートだなと。でも、キーになる進藤が『やってみます』と言ってくれたので可能になったんです。元々が、どこのポジションでもできる選手でしたから。

 ただ、あのときは最初、石井をショートにして、ローズをサードにして、進藤をセカンドにしたんですが、ローズが音を上げたんです。ある程度気分屋なところがありましたので、とにかく気持ちよくやってくれないと困るということでセカンドに戻した。だから、進藤には一番迷惑をかけたと思っています」

 サードに入った進藤は、当時芝生の切れ目にかかる位、深い位置でポジションを取っていた。それ程、肩に自信があったのであろう。しかし、大きなコンバートというのは、下手をするとチーム自体が崩壊しかねない。

「あの頃、内野守備コーチを山下大輔がやっていたんですが、山下には反対されました。『これはありえません。絶対ダメです』と言うわけです。でも、自分が監督として率いるチームをプロの一流として認知させるには、目玉も作らなきゃいけない。

『このコンバートだけはやらせてくれ』ということで押し切りました。進藤はOKしてくれて、石井は僕の話を聞いて、『やります』と言ってくれました。ファーストの駒田は守備も良かったし、それであの内野が完成しました。駒田以外は全員、20代でしたからね。発展途上のチームでしたが、できるだけ早く一流のチームに早く近づけたいという思いが強くありました。

 僕が監督最初の年の東京ドームの試合で、先発させたピッチャーが有働克也、キャッチャーが谷繁だったかな。両チームのメンバー表を見ていたら、その時にいた弘田澄男ヘッドコーチが『監督うちのスタメンの選手たちより、ジャイアンツの試合に出てない選手のほうが給料がずっと高いですよ」と言い出して、すごく寂しい思いをしてね。早く給料でも一人前のチームにしなきゃいけないなと、その時つくづく思いました」

 当時、監督の大矢を参謀として支えた弘田コーチの存在は大きかったと多くの横浜関係者が証言している。星野仙一に島野育夫、落合博満に森繁和、名将は他球団からでもこれと見込んだ人材はパートナーとして招聘するケースが多い。ロッテ、阪神出身の弘田を横浜に引き入れたのは、大矢だったのであろうか。

「確かに弘田は同じチームではなかったのですが、僕は現役の時から、彼とはオープン戦でいろんな話をしていたんです。僕がコーチで横浜大洋に入団した時に、弘田も横浜の二軍でコーチをやっていて、その時に上がってきたんです。だから、『また会ったな』みたいな感じでした。

 彼は野球の見方が普通のコーチとちょっと変わっていて、すごく細かいところをよく見ているんですよ。外野手だったのですが、とても緻密に指導してくれるコーチだったんです。その代わり、言いたいことははっきり言う。だから、フロントにはあまり好かれなかったですが…。

 でも、僕にとっては、自分が持ってないものを持っている貴重な人材です。だから重用したのですが、『監督、あんなところで何でエンドランかけるんですか?』とよく言われたりしましたよ(笑)。『えっ駄目だった?』とかっていう話で。

 そういう意味でも直言してくれるのはありがたかったです。投手陣も佐々木主浩を筆頭に充実していましたし、それを指導してくれたピッチングコーチにも感謝しています。権藤(博)さんと(斎藤)明夫ちゃんがもう少し仲が良かったら、もっと嬉しかったですが(笑)」

 谷繁の育成、内野のコンバートに成功して1997年は2位。さあ、来年というときに契約が打ち切られた。無念さは推して知ることができる。

「それはもうそれでしょうがないですよね。この世界は契約社会ですし、確かに2年契約でしたから。シーズンが終わる何日か前に、明日球団に来てくれと言われて、たぶん来年の話だろうなと思って行きました。

 その当時の横浜はスケジュールなどを全部紙に書いて提出するというシステムだったんです。で、まずは秋季練習をこういうメンバーで何日から何日ぐらいでやろうと考えてそれをコーチの人たちに全部出してもらって、その書類を持っていったんです。そうしたら、『お疲れさまでした。来年はもう契約はありません』と言われて。正直最初は『エッ』という感じではありましたが…。満了ですから、恨みも何もありません」

 そして、1998年に日本一になったのは周知の通りである。盤石のレギュラー陣が若く、さらには成功経験を積んだチームということもあり、黄金時代は続くかと思われた。しかし、連覇はならなかった。横浜の栄光を一年で終わらせてしまったのは、何が問題であったのだろうか。

「これは個人的な意見ですけれども、生え抜きをもう少し大事にしてほしいというのは常に思っていました。僕がいた時の高木豊もそうでしたけど、結局チームを出されてしまう」

 タラレバの話になるが、もしもう一年、大矢が指揮を執っていたら、いかなるビジョンでどんなことに着手をしていただろうか。

「あれだけ野手の連中が頭角を現して、いいチームになっていったので未来は楽しみでしたね。横浜スタジアムという狭い球場をフランチャイズにするのであれば、まずはマシンガンで打っていかないと面白みがないんです。だけど、野球ってそれだけでは続かないのでね。

 若手のピッチャーの人たち、僕が使いかけた、当時の戸叶尚だとか福盛和男だとか、あの連中を一人前に持っていこうと考えていました。そうなれば、チームの形がきちんと成立して、向こう、それこそ5年ぐらいは、常に優勝に絡んで戦って行けるんじゃないかと思っていました」

 実は内野に続いて外野も鉄壁の守りになる予定であった。

「新庄剛志(当時阪神)が横浜に来たいと言ってたんです。畠山準とトレード寸前まで行って。そうしたら、阪神の藤田平監督がその年(1996年)の夏に解任されることがわかって、それで壊れたんです」

 当時、指導において心掛けていたこと。それがまた非常に大矢らしい誠実で謙虚なポリシーだった。

「あのころはバッティングピッチャーなどの裏方さんもそんなにいなかったですから、それこそコーチ連中も総出で投げられる人は投げたりとかしていました。でもそれが、大切というか、選手たちがそういう姿を見ていると『ああ、一生懸命指導されている』と思ってくれるわけです。

 コーチと選手はしっかり意思が疎通できてないといけないんです。特に現役の時にそんなに成績を残していない人がコーチをやって情熱を感じられなかったら、『お前、だからレギュラーになれなかったんじゃないか』とかって思う選手は必ずいるんです。

 とにかく自分たちの気持ちが選手に通じるということが一番大事だと思っていましたので、その姿勢は常にコーチの人たちにお願いしていました」

 2007年、大矢は10年ぶりに横浜の監督に復帰する。間には権藤博、森祇晶、山下大輔、牛島和彦の4人の監督が指揮を執っていたが、大矢の帰還については、第一次政権の時代に薫陶を受けた選手たちから、「もう一度大矢さんとやりたい」という声が上がったことが大きかった。

「僕はもう監督をやるつもりはなかったので、それがなかったら、復帰しませんでした。選手がそう言ってくれたのは、とってもうれしかったですね。2回目の監督の時の印象は、佐伯貴弘だとか鈴木尚典だとか、琢朗たちがもうベテランだったので、僕の仕事とすれば、この連中をどうやってうまく引かしていくか、というのが一つのミッションだと考えました。

 一方で若い選手は、正直なかなかこれといった人材がいなかった。だから、個人を伸ばすというのは難しいチームだなというのはありましたが、その当時は、チームの方針として『若返りをしたい』という話がありましたので、同じレベルだったら若い選手を使っていました。だから、もう少し骨のある選手がいてくれたらなというのはありました。

 僕の二期目はキャッチャーが相川亮二だったんですが、彼がFAでヤクルトへ行っちゃったんです。あれがやっぱり残念で、自分ではもうちょっと育てたかった。シゲ(谷繁)とは違って、多少体が弱いところはあったんだけど、結構粘り強い考え方をする選手だったので、また違うキャッチャーに成長してくれたと思うんです。

 シゲはその当時はもう中日のメインのキャッチャーで、うちの若手選手がもてあそばれるみたいな感じで、バッターボックスで踊らされちゃってね。たまに会うと、『シゲ、もうちょっとお前、遊ぶなよ』とかっていう話をしましたけどね(笑)。

 彼はもうその頃は、ゲームの中のポイントを好調な強打者に持っていかないように試合をコントロールしていましたし、たまたま来ちゃった場合は、どうやっていくかというのをゲーム前からもう考えていましたしね」

 大矢は当然ながら、キャッチャーの育成についての思いが強い、同時にそれが軽視されることに忸怩たる思いがある。

「残念ながら、今はキャッチャーを大事にする野球じゃなくなっちゃっているんですよね。シーズンが終わって考えて、ベストナインのキャッチャーは誰なんだろう、ゴールデングラブは誰なんだろうって、考えたときにやっぱり、それぞれのチームの先発キャッチャーの出場試合数が少ないんです。

 今はピッチャー優先の時代で、キャッチャーはそれこそ打つか肩がよければ誰でもいいなという時代になってしまっているので、それがやはり残念です。一球の意味をどう考えているのか。きわどいコースを突くのも空振りを取ろうと思って投げさせているのか、1球捨てようと思って投げさせているのかで、また意味合いが違ってくる。そういうことを常に意識の中に置いているキャッチャーが今は少ない。

 シゲなんかは、日本シリーズの時だったか、『大矢さん、あのバッターどうやって攻めたら良かったですかね』とかって言って来ましたよ。それだけ意欲があるということですよね。正解がないリードに対して、できるだけ正解を出そうとする」

 礎について話を戻そう。1998年に甲子園で横浜ベイスターズが優勝を決めたとき、ちょうど大矢はニッポン放送で解説をしていた。胴上げの瞬間、何人かの選手が不自然にスタンドの方を向いて帽子を振っていた。ファンに向かっているのだろうか?と思った大矢は真意がわかってハッとした。選手たちはラジオの中継ブースにいる自分に向かって感謝を捧げていたのだった。

「それがとってもうれしかったですね。『ああ、(監督を)やっててよかった』と。2年で終わって、自分が監督のときは優勝できませんでしたけど、同じチームであれだけ頑張ってくれた選手たちが優勝したので、それが本当に誇らしかったのです」