「これで終わりではなくて、一度プロレスラーになったからには死ぬまでプロレスラーなので、死ぬまでトレーニングを続けて第二の人生を思いっきり歩んでいきたいと思います」 2月22日、新日本プロレスの中西学が、27年のレスラー人生に幕を下ろした。ア…

「これで終わりではなくて、一度プロレスラーになったからには死ぬまでプロレスラーなので、死ぬまでトレーニングを続けて第二の人生を思いっきり歩んでいきたいと思います」

 2月22日、新日本プロレスの中西学が、27年のレスラー人生に幕を下ろした。



アルゼンチンバックブリーカーなど、豪快な技でファンを魅了した中西

 引退試合のチケットはファンクラブ優先でソールドアウト。一般発売はなく、著者の元には疎遠だった学生時代の同級生や、最近親しくなったプロレスファンなどから「どうしたらチケットを入手できるか」と問い合せが殺到した。初めての経験で戸惑いながらも、中西というレスラーが世代を超えて愛されていることを痛感した。

 中西は宇治高学時代にレスリングを始め、名門の専修大学に進学。卒業後、1989年から全日本レスリング選手権大会で4連覇を達成する。和歌山県教育庁に勤めていたが、大学の先輩である長州力と馳浩に熱心に誘われて、1991年に新日本プロレスのレスリング部「闘魂クラブ」に入門。社員として働きながら1992年バルセロナ五輪に出場し、同年8月に新日本プロレスに入団した。

「オリンピック出場」の肩書きを持つ中西は、破格の待遇でデビューを果たす。

 通常、新日本プロレスの若手選手”ヤングライオン”は前座試合でデビューする。しかし中西は入団から約2か月後、いきなり藤波辰爾とのタッグで「SUPER GRADE TAG LEAGUE」に出場。その際は、新人恒例の「黒タイツに黒シューズ」ではなく、アマレスのタイツにヘッドギアというスタイルでリングに登場した。

 1995年3月に若手レスラーの登竜門である「ヤングライオン杯」で優勝すると、同年7月にはWWF(現在のWWE)と人気を二分していたアメリカのプロレス団体「WCW」に参戦した。「世界に通用するリングネームを使え」というマサ斎藤に、映画監督の黒澤明の名前を用いた「クロサワ」というリングネームを与えられ、ヒールのレスラーとして躍動した。

 翌年に凱旋帰国し、1997年には小島聡と組んで「IWGPタッグ王座」を初戴冠。順調にキャリアを重ねていったが、シングルではなかなか結果を出すことができなかった。1999年のG1クライマックス決勝戦で、武藤敬司を破って初優勝を果たすも、「IWGPヘビー級王座」のベルトを手にするまで、それから約10年の月日を要した。

 2009年5月6日、それまで5度失敗していたヘビー級王座への挑戦が急遽決定。相手は当時32歳の”100年に1人の逸材”棚橋弘至である。誰もが棚橋の勝利を予想したが、最後にリングで勝ち名乗りを受けたのは42歳の中西だった。6度目の挑戦で悲願の初戴冠を果たした姿を、実況席から見ていた中西の”恩師”山本小鉄は人目をはばかることなく涙した。

 しかし、2カ月も経たずにそのベルトを棚橋に奪還されると、2011年6月4日のタッグマッチで悲劇が起こる。中西が井上亘のジャーマンスープレックスを受けて動けなくなり緊急搬送。「中心性脊髄損傷」と診断され、一時は動くことすらままならなかった。

 それでも懸命なリハビリを行ない、2012年10月8日に復帰戦が実現した。両国国技館で行なわれたタッグマッチのパートナーは、2010年のプロレス大賞で中西と共に「最優秀タッグチーム賞」を獲得したストロングマンと、同世代の永田裕志。試合には敗れたが、中西の目元にはキラリと光るものがあった。

 492日ぶりのリングで輝きを放った中西だったが、徐々に活躍の場を失っていく。同年に親会社になったブシロードの経営戦略が見事にハマり、人気もV字回復した新日本プロレスは”新陳代謝”が激しくなっていった。その煽りを受けた中西は、ヘビー級レスラーがリーグ戦でぶつかり合うG1クライマックスへの出場がなくなり、タッグマッチや前座試合が増え、試合が組まれない日が長く続くこともあった。

 首のケガの影響も大きく、人前で弱音を吐かない中西が「以前と違い、リング上で思うように動くことが出来ない」と親しいスタッフに漏らしていたという。身長186cm、体重120kg。「野人」「和製ヘラクレス」と呼ばれダイナミックなプロレスをモットーとしてきたが、復帰後はその動きができずに苦しんだ。

 久しぶりに大舞台に立ったのは、今年の「WRESTLE KINGDOM 14 in 東京ドーム」でのこと。その第0-3試合のタッグマッチで、中西は永田と組み、天山広吉・小島聡と戦った。人気が下火になった時代も新日本プロレスを支え続けた”第三世代”の4人が躍動。中西も独特のムーブ「野人ダンス」で大観衆を味方につけた。

 最後は小島がラリアットからの片エビ固めで中西から3カウントを奪った。試合後に健闘を称え合い、他の3人がリングを降りるなか、中西は名残惜しげにリングの四方に頭を下げて両手を天に突き上げた。

 胸の中にあった決意がその行動に表れたのだろう。獣神サンダー・ライガーが引退式を行なった翌日の1月7日、中西は2月22日の後楽園ホールで引退することを発表した。先輩レスラーの引退ロードを妨げない、中西らしい気遣いが感じられる引退記者会見で、次のように思いを語った。

「首のケガで思うような戦い方ができず、ずるずるとこの状態で続けているよりもしっかりけじめをつけたい。『昔はあんなことができた』というよりも、自分の中にある熱いものを2月22日まで使いきって、レスラー人生を全うしたいと思います」

 引退試合はやはりタッグマッチ。同コーナーには”第三世代”の永田、天山、小島。対するは、オカダカズチカ、棚橋、飯伏幸太、後藤洋央紀という、現在の新日トップ選手が顔を揃えた。

 中西は、味方の永田を得意技のアルゼンチンバックブリーカーで持ち上げ、棚橋や飯伏に投げ捨てるという、予測不能の野人殺法を繰り出す。引退試合とは思えぬ動きを見せる中西だったが、最後は後藤のGTR、飯伏のカミゴェ、オカダのレインメーカー、そして棚橋のハイフライフローと、各選手の必殺技を連続で受けてリングに散った。

 3カウント後、リング上で大の字になったまま動けなかった中西。デビューから一緒の時を過ごした永田、天山、小島の肩を借りて立ち上がる際には必死に涙を堪えていた。

 引退セレモニーでは、”世界の荒鷲”坂口征二、中西をスカウトした馳、特別解説者を務めた長州、デビュー戦のタッグパートナーである藤波がサプライズで登場。そのなかでマイクを握った中西は、これまで支えてくれた人たちへの感謝を口にした。

「奇跡のようにオリンピックに出られて、大したことないのに新日本プロレスにとってもらって、いい気になっていろいろ失敗も繰り返して。でも、永田、天山さん、小島さんと切磋琢磨させてもらって、諸先輩たちに鍛えられて、後輩たちにもケツ叩かれて、なんとかここまでやってこれました。ホンマにありがとうございました」

 後楽園ホールに「中西コール」が響き渡る。その光景を見た小島が「25年以上の付き合いですが、試合以外で怒っているのを見たことがありません。ずっと優しいままの人でした」と語れば、長州は「中西はリングでの表現が優しすぎたかな。もうちょっと怒りが足りなかったかな」と、惜別の思いを述べた。

 固く目を閉じ、引退の10カウントを噛みしめるように聞いた中西が、胴上げで3回宙に舞った。最後の締めコールではマイクを忘れ、あらためて棚橋にマイクを渡されると、照れながら「(締めコールは)やったことないから」と満面の笑み。会場からも笑いが起きるなか、中西は「1、2、3、ホォー!」と声を上げ、自らの引退試合に幕を閉じた。

 試合後のインタビューでは、記者からの「天国のお母さんも『お疲れさま』と心から言ってくださっていますよね」という質問に、一瞬天を仰いで「言ってくれたらホンマに……お母ちゃんの好きだったものでも供えて、手を合わせたいと思います」と答えた。

 膝や肘にサポーターをせず、黒のショートタイツに黒シューズという”ストロングスタイル”を最後まで貫いた中西。低迷期の新日本プロレスを支えた、強くて、デカくて、優しすぎたレスラーがリングを去った。