苦しんでいる時に必ず目を通してきたノートがある。それはもうボロボロになっている。ロッテのサブローは、このノートと向き合うことで亡き師匠と“会話”をしていた。師匠の名は高畠導宏。02年に千葉ロッテマリーンズの打撃コーチを務めた。04年7月1日…
苦しんでいる時に必ず目を通してきたノートがある。それはもうボロボロになっている。ロッテのサブローは、このノートと向き合うことで亡き師匠と“会話”をしていた。師匠の名は高畠導宏。02年に千葉ロッテマリーンズの打撃コーチを務めた。04年7月1日に永眠。60歳だった。
■04年に永眠した高畠氏、「オレにとっての師匠であり、野球界のおじいちゃん」
苦しんでいる時に必ず目を通してきたノートがある。それはもうボロボロになっている。ロッテのサブローは、このノートと向き合うことで亡き師匠と“会話”をしていた。師匠の名は高畠導宏。02年に千葉ロッテマリーンズの打撃コーチを務めた。04年7月1日に永眠。60歳だった。
「オレにとっての師匠であり、野球界のおじいちゃんやな。同じ岡山県出身ということもあって、本当にいろいろと可愛がってもらった。あの人に教えてもらったことはノートにメモしてある。どうしてもアカンと思った時は当時のメモを見直していた。もちろん、そのほとんどは体に染み込んでいるけど、見直したくなる時があった」
師匠と出会った時のサブローは打てないと、人一倍落ち込むタイプの選手だった。そんな若者の胸を叩きながら高畠コーチは言った。「そんなこと気にするな。打てないことに文句を言うヤツがいるなら、『じゃあ、オマエが打ってみろ』と言うぐらいの気持ちでいろ!」。コーチから、そのようなゲキを受けたのは初めてだった。不思議と気持ちが楽になったのを覚えている。ユニークな教え方に基づいた指導法は、多岐に渡った。どれもが新鮮で、分かりやすかった。自分が生まれ変わりつつあることを実感した。
そんな師匠との別れは突然訪れることになる。高畠氏はマリーンズを退団し、私立筑紫台高等学校(福岡県太宰府市)で社会科の教論を務めていた。教壇に立つのは、かねてからの夢だった。サブローは夢に向かって突き進むその姿に感銘を受け、きっと多くの優秀な教え子たちを世に輩出であろうことを想像していた。そんな矢先。近い関係者から「もう長くないと思う」と告げられた。その少し前には食事を共にしていただけに簡単には信じることはできなかった。
■「あの人のことを忘れたらアカン」
「食事をしたときはむちゃくちゃ元気だったから。今思うと、きっとオレに心配をかけさせたくないと無理していたのだと思う。本当は相当、しんどかったんやろうな。それなのに楽しい時間を過ごさせてもらった。そういう人だった」
04年の夏。恩師・高畠氏はすい臓ガンで亡くなった。それ以降、サブローは遠征用バックに、師匠の笑っている写真が貼られているストラップを取り付けた。「あの人のことを忘れたらアカンという思いから」と当時のサブローは寂しげに言った。そして、それからもずっと師匠からのアドバイスを必死にメモしたノートと共に野球人生を過ごしてきた。
師匠も、きっと天国で、どんな時も背番号「3」を見守ってくれていたはずだ。サブローは時に弱気になると「大丈夫や」と声をかけてくれたような気がした。8月31日。サブローは22年間にも及んだプロ野球生活に別れを告げることを発表した。ここまで1781試合に出場。1362安打を積み重ね、127本塁打、655打点。あの日の出会いがあったからこそ、ここまで来られた。幸せな野球人生だった。
■完成の域に達しようとしているノート
当時のノートは今も大切に保管している。そしてその後も、何かあれば、ノートにメモをしてきた。それは若かった当時、アドバイスを必死にメモし、成長をしてきたことで身に付いた習慣だ。自分の考え方や、野球観、打撃理論を書き加え、ノートは今、完成の域に達しようとしている。ただ、中身に関しては「人に見せるものじゃない」とサブローは門外不出を決め込んでいる。
9月25日、オリックス戦(QVCマリンフィールド、13時試合開始)。サブローは激動のプロ野球人生に幕を下ろす。メモをし続けてきたノートを、いったん閉じる時を迎えた。18歳でプロの門を叩き、ここまで走り続けてきた。壁はもちろんあった。辛い思いをして悔しさをたくさん味わった。それでも、いつも周囲には優しく見守ってくれる存在がいた。支えてくれる人がいて、一緒に厳しい道を歩んでくれたチームメートがいた。
歩んできた道を振り返ると、決して平らな道ではなかったが、充実した日々だった。ここまでたどり着くことができたのは一人の力ではなく、いろいろな出会いに恵まれていたから。いろいろな人の想いをいつまでも忘れることなく、サブローはまた新たな人生を歩み始める。
(記事提供:パ・リーグ インサイト)
マリーンズ球団広報 梶原紀章●文 text by Noriaki Kajiwara