すべては試合でベストパフォーマンスを発揮するため リーグ戦では春・秋ともに全勝優勝し、全日本大学選手権(全日本インカレ)では3連覇を成し遂げた早大。その華々しい結果の裏に並々ならぬ努力があった。その筆頭としてチームメイトやスタッフ陣から真っ…

すべては試合でベストパフォーマンスを発揮するため

 リーグ戦では春・秋ともに全勝優勝し、全日本大学選手権(全日本インカレ)では3連覇を成し遂げた早大。その華々しい結果の裏に並々ならぬ努力があった。その筆頭としてチームメイトやスタッフ陣から真っ先に名前が挙がるのは、副将の武藤鉄也(スポ=東京・東亜学園)だ。試合でのパフォーマンスを向上させるため、練習から体のケアまで決して妥協はしなかった。「早大バレー部はプレーの面でも精神面でも自分を成長させてくれた場所であり、今でも戻りたいと思う」と振り返る。そんな武藤の大学バレーの軌跡をたどる。

 武藤と早大バレー部の出会いは中学3年生の頃。JOCジュニアオリンピックカップの東京都の選抜メンバーとして参加した練習会で松井泰二監督(平3人卒=千葉・八千代)から指導を受けたときであった。この先生の下で学びたい――。そこで早大進学を決意。入部してからは、データを扱い科学的な視点からアプローチする松井監督の影響で練習への取り組みは変化した。「自分はセンターとして小さい方だから高さに加えてパワーも必要」。そのためにトレーニングに重点を置き、メニュー以外のことも継続して取り組んだ。さらに食事や栄養補給等のセルフケアも怠らなかった。すべては試合でベストパフォーマンスを発揮するため。周囲も認めるほど入念な準備を重ねた結果、2年時の春季リーグ戦からレギュラーに定着。ブロックやトータルディフェンス、決定率の高いスパイクでチームの中心メンバーとして活躍した。


武藤は高い決定率を誇るCクイックを武器としていた

  4年生になってからは副将に就任。チームを盛り上げたり雰囲気を締めたりする主将の堀江友裕(スポ=和歌山・開智)とは対照的に、冷静にチームを俯瞰し練習中に細かい指示を出したりプレーのシステム作りをしたりしていたという。タイプの違う二人であるが、互いの足りない部分を補い合いそれがチームにうまく機能していた。さらに、アナリストの吉田伸(スポ=東京・調布南)や寺石周防主務(政経=早大本庄)によるサポートのおかげで練習から試合運びまでスムーズに行うことができた。こうして4年生がそれぞれの役割を果たしていたこともあり、春季関東リーグ戦では全勝優勝。「やっぱり早稲田は不動の大学王者」。誰もがそう思った。しかし思いもよらぬ災難が早大に降りかかる。6月に行われた東日本大学選手権(以下、東日本インカレ)の3回戦で、春季リーグ戦後の入替戦で1部に昇格したばかりの青学大にまさかの敗退。監督や主力メンバーが不在であったとはいえ、4年生のレギュラーメンバーは残っていた。4年生の力不足を突き付けられた苦しい時期であったが落ち込んでいる暇はなかった。そこからさらに練習やミーティングを積み秋季関東リーグ戦、全日本インカレに向けて再出発する。

 秋季リーグ戦の初戦は因縁の相手、青学大であったがストレートで破ると一気に波に乗った。最終戦となった東海大との試合では監督不在の中ではあったが、ストレートで下し見事全勝優勝を飾った。そして迎えた個人賞の表彰式。スパイク賞、最優秀選手賞の受賞者として武藤の名前が呼ばれた。「受賞してくれて本当にうれしい」。監督をはじめ、コーチや栄養士など、武藤の努力を間近で見てきたスタッフ陣から喜びの声が上がった。誰よりも試合でのベストパフォーマンスにこだわり、妥協することなく練習に取り組んできた武藤が獲るべくして獲った賞だった。翌月に行われた全日本インカレでは2回戦でケガをしたものの、普段から入念に体のケアをしていたこともあり準決勝には復活。持ち前のクイックやブロックが光り、3連覇に大いに貢献した。

 下級生の頃からコートに立ち、4年生からは副将としてチームづくりの中心にいた。そのため立場上、メンバーに厳しい言葉をかけなければならなかったこともあったという。しかし自分自身にはほかの誰よりも厳しかった。練習がしんどくてやめたいと思ったことは何度もあったものの「バレーボールが大好き」という気持ちはずっと変わらなかった。そんな武藤にとってバレーボールとは「ずっと寄り添うもの」だという。卒業後は実業団に入団しプロバレーボーラーとして新たな一歩を踏み出す。Vリーグでプレーすることは小学生からずっと追いかけてきた夢であったが、最終的な目標はプロチームのコーチになること。そのためVリーガーとして活動する傍ら、コーチングを学ぶために大学院にも通うという。この4年間で培ってきたことを胸にいざ新しいステージへ――。

(記事 西山綾乃、写真 萩原怜那)