「準備は整いました。あとは結果を残すだけです。今年は目標とか数字とかはありません。ただ試合に出たい。そのためなら、なんでもやるつもりです」 2020年、平塚球場での自主トレ最終日。倉本寿彦はそんな言葉を残して沖縄キャンプへと飛び立った。いつ…

「準備は整いました。あとは結果を残すだけです。今年は目標とか数字とかはありません。ただ試合に出たい。そのためなら、なんでもやるつもりです」

 2020年、平塚球場での自主トレ最終日。倉本寿彦はそんな言葉を残して沖縄キャンプへと飛び立った。いつも通りの、淡々としながらも強い思いを秘めた倉本の物言いは、戦う姿勢に入っていることの証(あかし)だった。



倉本の今季は平塚球場での自主トレから始まった

* * *

「もう後はないと思っています」

 倉本からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。1年前のちょうど今頃のことだ。
 
 フルイニング出場から一転、大和の加入でセカンドへコンバートされ、大幅に出場機会を減らした2018年のシーズンを考えれば、息が詰まりそうになる言葉の重みを感じた。だが言葉を発した当の本人から、悲壮感や決死の覚悟といったものは感じられない。いつも通りの、淡々とした倉本のまま。ただ、言葉だけが異様な迫力を持っていた。

「具体的に数字がどうこうというものではなくて、”試合に出られなかった”ということがすべてです。試合に出られない間に、自分に足りないものは何なのかをずっと考えていました。単純に技術が足りなかったこともあるだろうし、気持ちの面でも、野球に対しても、どこかに甘さがあったのかもしれない。

 今の僕に求められているのは”ヒットを打つこと”です。1年目の途中からヒットが出るようになって『このままいけば試合にずっと出られるのかな』と思っていましたが、18年は完全に崩れてしまいましたからね。これは変わらないといけないな、と感じました」

 昨年、宜野湾の練習場で倉本はいつまでもバットを振り続けていた。現役時代に、狂気的ともいうべき練習を自らに課し続けてきた坪井智哉打撃コーチですら、「倉本は練習するね。俺が言うんだからすごいよ。目の色が違う」なんてことを言う。

「プロでやる以上、絶対に弱いところは見せたくない。弱みを見せた途端につけこまれますから」

 ルーキーの年に言っていたそんな言葉が頭をよぎった。これまで倉本から弱音のたぐいはほとんど聞いたことがない。15年、ルーキーとして開幕一軍出場を果たし、翌年には3割近い打率を残してショートのレギュラーに定着。17年には”憧れの人”石井琢朗以来のフルイニング出場と、無類の勝負強さで”恐怖の9番打者”と恐れられ、日本シリーズ進出に大きく貢献した。

 実際は、その3年間にしても苦しい時間の連続だった。打撃フォームがプロの投手に合わず変更を余儀なくされた時も、極度の不振で監督に二軍落ちを直訴する手前まで追い詰められた時も、倉本は喜怒哀楽を表に出そうとはしなかった。苦しみや哀しさ、やりきれなさ。サヨナラヒットを打った時ですら、喜びの感情を極力控えようとする。それは「弱みを見せたくない」という自分の中での誓いに倣(なら)ってのことだったのか。

「僕は小さな頃から決して実力が抜きん出た選手でも、華のある選手でもありませんでしたからね。周りには凄い選手たちがたくさんいて、『その人たちに負けたくない』『どうすれば試合に出られるか』ということだけを考えてやってきました。その考えはプロに入った今もずっと変わりがありません」

 横浜高校時代の恩師、渡辺元智監督は倉本がドラフト指名された時、「まさか倉本がプロに行くとは思わなかった」と正直な感想を漏らしている。中学時代に指導した寒川シニアの監督も、横浜高校に進学したいという倉本に「無理だ」と反対した。実際、入学後すぐに、倉本はあまりの練習の厳しさとレベルの違いに打ちのめされ、野球部を辞めようとしたことがあった。

 倉本を野球に戻したのは、母親の言葉だった。
 
「好きな野球をやると自分で決めたのなら、最後までやり抜きなさい」

 以来、心が折れるたび、その言葉を支えに立ち上がってきた。”そこらへんにいる普通の野球少年”だった倉本が、人よりもずば抜けて強く持っていたのは、”最後までやり抜く”という野球への一途な思いと憧れだ。

「試合に出るためには」「プロに入るためには」と考え、練習をやればやった分だけうまくなる。その喜びだけに従順に、憧れの横浜高校、そしてプロ野球を夢見ながら、文字通り朝から晩までボールを追いかけた。やがて無謀と言われた横浜高校でレギュラーを掴み、大学ではドラフト候補になるまで頭角を現した。大卒でプロ入りが叶わず道が途絶えそうになった時も、社会人・日本新薬に拾ってもらい25歳まではプロを目指すと決めた。

 14年、最後の挑戦と決めた年、都市対抗などでの活躍が認められ、ドラフト3位で横浜DeNAベイスターズからの指名を受け、倉本はようやくプロ野球選手になった。

「今となってはプロに行くまでに遠回りしたことが、僕には必要な時間だったと思えています。苦しんでいるなかで『どうすればよくなれるか』と考えて、道を探していくことで野球人としても、人間的にも成長することができた。

 プロに入ってからも成績が出ないと、どうしても周りから苦しんでいると見られてしまいますけど、野球が嫌になったことは一度もないし、自分にとっては、成長するには必要な時間だと思いたい。もちろん、プロとして成績は残さなきゃいけない。野球がうまくて、人間的にもよくなれたら一番いいんですけどね」

 野球選手として芯の部分は、頑として譲れないものはある。その一方で、倉本はプロ入りしてからも、自分のスタイルを変えながらキャリアを重ねてきている。ルーキー時代、かつて門田博光に見初められた長打を狙う打撃を捨てることも、セ・リーグの9番という未知の打順も。そして、大好きで、楽しくて、誇らしかったショートからのポジション変更も。「試合に出たい」という大義の前に、自分の姿を変えながらここまできた。

「もう後がない」と思ったことは一度や二度じゃない。どんな場面でも心を平らに、前向きに。小さな石をひとつずつ積み上げてきた力を発揮できれば、最後には絶対に勝てる。追い込まれた土壇場からでも挫(くじ)けない信念は、下から這い上がってきた者の強みだった。

* * *

「ねえ、なんで倉本はインターネットであんなに執拗に叩かれているの?」

 ベイスターズのあるコーチに聞かれたことがある。彼だけじゃない。ここ数年で、同じように心配する人の声を幾度となく聞いた。

 17年頃からだったろうか。ネット上で倉本の守備に対する批判の声が噴出し、それは日増しに大きくなっていった。はじめこそ倉本に好意的でない人たちの中傷だったのかもしれない。だがいつしか普通のファンの間でさえ、さしたる悪気もないまま”ネタ”として面白おかしく語られるような事態になっていた。

「でも、あいつはメンタルが強いからね。大丈夫だと思うけど……」

 チームメイトたちの心配の後には、決まってそういう言葉が続いた。確かに表情を変えず淡々とプレーしている倉本を見ていると、何があっても動じないような空気を漂わせている。そのメンタル強者然とした佇まいが倉本の武器になっているともいえたが、一方で「覇気がない」などと勘違いされてしまう弊害も持ち合わせていた。

 プロ野球選手は一般人から見れば、別世界に住む超人に思えてしまう。160キロの球を投げたり、信じられないようなホームランを打ったり。何億円もの金を稼いで、何万人もの観衆のプレッシャーにも負けず、平然と凄いプレーをやってのける。

 でも、そんな超人なんて本当はいない。大多数の選手は脳味噌が焼きつきそうな重圧の中で必死になって戦っている。ファインプレーをした夜、布団の中で思わず笑みがこぼれる日もあれば、ひとつの野次で心がズタズタにされることもある。

 倉本だって同じ人間だった。ただ違うのは、プロのグラウンドに立った以上は、どんな批判も受け容れて戦い続ける覚悟を持っていることだ。一度だけこんな話をしてくれたことがある。

「僕、本当はメンタルが弱いんです。たぶん、人よりも。周りに見せないようにしているだけで、ミスをすると一回一回、かなり落ち込んでいます。ただ、引きずらないようにするんです。プロ野球選手として、みんなの代表として試合に出させてもらっている以上、戦う姿勢を見せなければそこにはいられない。ミスして落ち込んで終わりじゃないですからね。その後もプレーは続くし、人生だって続く。何を言われても、どんな大きな失敗があっても、諦めずに前を向き続ければ、最後には笑えると信じていますから」

 17年。日本シリーズ第2戦の舞台で、内野ゴロを好捕した柴田竜拓の送球を落として失点に繋がった大きなミス。18年、東北楽天戦。茂木栄五郎の平凡なセカンドゴロを「感覚の違い」で内野安打にしてしまい二軍落ちとなった、いわゆるボーンヘッド。

 過去、一軍戦に出始めの梶谷隆幸や宮崎敏郎が同じようなミスをやらかして二軍に落ちた時には、口々に「もう終わったと思いました」と絶望したような痛恨のミス。そんなミスの後で、倉本は何を思ったのか。

(後編につづく)