かつて健常の馬場馬術界で、ブラジル人ホープとして期待されていたロドルフォ・リスカーラ。フランス・パリで有名ブランドの店頭に立っていたこともあるというのも頷けるスマートさを漂わせる。穏やかに微笑む彼だが、2015年、父の死の直後、自身も重い病…

かつて健常の馬場馬術界で、ブラジル人ホープとして期待されていたロドルフォ・リスカーラ。フランス・パリで有名ブランドの店頭に立っていたこともあるというのも頷けるスマートさを漂わせる。

穏やかに微笑む彼だが、2015年、父の死の直後、自身も重い病にかかり、死線をさまよい、ひざ下、手の指を失った壮絶な経験をしている。だが、「馬術があったから生きる希望が見つけられた。いまは東京パラリンピックでの金メダルが目標です」と明るく話す胸の内に迫る。

オリンピックを目指すも挫折を経験

 馬場馬術は採点競技なので、どれだけ審判員に存在を知られているか、それまでの積み重ねも大事なんです。だから、健常者の大会で名を知られていても、パラでは新参者の僕は、かなり頑張らないといけない状況が続いていました。強豪が揃うヨーロッパ勢にブラジル人の僕が割って入る大変さもありますし。でも、ここで銀メダルという結果を残せて、とても満足を得られました。

 祖父が競走馬を所有していたので、母・ロザンジェリはレッスンプロになり、私と妹のビクトリアは、ライダーとして育てられたんです。そして21歳のとき、私は馬場馬術が盛んなドイツに移り住みました。いい馬がいるからチャンスが多かったんです。

 とても悲しくて、がっかりした状況でした。当時はフランスの厩舎に雇われて、オリンピックを目指しながら、馬の調教をしたり、レッスンしたりしていたんです。でも、馬術競技はお金がかかるし、上手だからといってオリンピック選手になれるわけじゃないとだんだんと分かってしまった。だったら、馬の仕事にはいつでも戻れるのだから、若いうちに馬ではない仕事をして、人生を変えようと。そこでクリスチャン・ディオールのフラッグシップストアで働き始めたんです。

パラ転向後、半年足らずで最高峰の舞台へ

 7月に休暇でブラジルに帰ったんです。両親は離婚していたけど、関係は悪くなくて、みんなで食事をしました。それが家族が揃った最後。翌日、僕はフランスに帰ったのですが、すぐに父の容態が悪くなったことを知らされて。なかなか航空券が取れず、翌週、ブラジルに戻ったとき、父はすでに亡くなり、埋められていました。

 父が亡くなった事後手続きのため、僕はまだブラジルにいて、昼間は元気に過ごしていたんです。でも夜中、急に体温が40度を越え、昏睡状態になってしまいました。細菌が血液組織に入り、機械で心臓を動かしている状態でした。体の末端に血液がいかず、壊死し始めていたので、母と妹は医師から「手足を切断しますか?」と聞かれたそうです。ただ、すでに「死を覚悟してください」と言われていたので、2人は「死ぬのなら切らないで」と答えたと後で聞きました。

 このとき、手足は残っていました。でも真っ黒で。そこで衛生状態のいいパリに戻って、医師に切るか、切らないか2つの選択肢が与えられたんです。そこで、僕は「切っても馬に乗れますか?」と尋ねたら、医師の返答は「正しい箇所で切断し、義足をつけてなんだってできるよ」というものでした。それで、10月にひざ下と手の指を切断したんです。

 当時、テロでたくさんの人が撃たれ、病室が足りなくなっていたので、僕はリハビリ施設で過ごしていました。そこに友人が電話をしてきて「私の馬を使っていいから、パラリンピックに出なさいよ」と言うんです。それで2016年1月にパラ馬術に転向することにしたんです。

 (障がいによる)クラス分けを受け、4月に初めてパラ馬術の大会に出場しました。周りは病気をしたばかりなのに大丈夫なの? という感じだったけど、私はそんなに緊張した覚えはありません。ただ4大会に出て、パラリンピックの出場を決められたときは本当にうれしかったです。

 結果はよくなかったかもしれないけど、僕は満足してるんです。病気のすぐあとで、最初のパラリンピックはスタートにすぎないと思っているから。暑くて大変なところを馬も頑張ってくれました。

 その答えは簡単です。開催国がブラジルだったからですよ。母国でオリンピック・パラリンピックが開催されることは、僕の人生ではもう二度とないと思う。だったら、出なければ、と思いました。馬術のおかげで病気のことをあまり考えずに済んだんです。僕の人生は終わっちゃった……と感じていた人たちも、出場したことでみんな興奮していましたし。スポーツのマジックですよね。

オリンピックとパラリンピック両方への出場を目指す
昨年10月に来日し「CPEDI3★Gotemba Autumn」でデモンストレーションを行った photo by Atsushi Mihara

 ドンヘンリコ号とは会ったときから気が合って「完璧だ!」と思いました。ソウルオリンピックの金メダリストであるアン・カトリーン・リンゼンホフさんが「あなただったら乗れるから」と提供してくれたんです。

 僕には集中力が高いという長所があるんですが、それ以上に、長期的な目標を設定し、準備ができるという強みがあるんです。ただ長く馬に乗るのではなく、何カ月後にどういうレベルに達していなくてはならないか、プランを立てられる。みんなが期待してくれると、燃える性格なので、それも良いのかもしれません。

 もちろん馬に気持ちを伝える方法は、以前とは違います。だからといって、難しさが増しているとは思いません。特殊馬具を使えるし、以前の経験があるからさほど操作は問題ありません。体を使って馬を操作する方法はいろいろ見つけられます。

 オリンピック・パラリンピックは巨大なパーティみたいなもの。選手だけでなく、観客もみな楽しめる。そんな特別な舞台で金メダルを獲ることに大きな価値を感じるから。

それと、2024年のパリ大会でオリンピックもパラリンピックも出たいという目標があるんです。レアなことですが、大きいスポンサーを得て、いい馬を手に入れられれば、夢は叶う。4年前のリオ大会は、出場が目標でしたが、東京大会では金メダルを獲ること、パリ大会では、オリンピックとパラリンピックに出ることが目標です。すべてがうまくいっているってわけではないけど、パリでの目標を達成するためにも、東京では金メダルがほしいです。

text by TEAM A

photo by Haruo Wanibe