PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第21回

いよいよ今年7月に開幕する東京オリンピック。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2004年アテネ五輪のマラソンは、マラソンの起源の地と言われるマラトンをスタートし、長い上り坂を経て、第1回近代五輪が行なわれたパナシナイコ陸上競技場にゴールする、厳しいコースだった。日本女子勢は1、5、7位と出場3選手全員が入賞し、水準の高さを見せつける結果となった。



2004年アテネ五輪女子マラソンで優勝した野口みずき

 アテネ五輪に出場したのは、前年の世界選手権2位で代表を内定させた野口みずきと、01年世界選手権2位で04年は名古屋国際女子マラソンで優勝した土佐礼子。そして、03年大阪国際女子で当時初マラソン最高の2時間21分51秒で3位に入った坂本直子だった。

 ハイレベルな選考を経た代表選出だった。

 坂本は03年8月の世界選手権では4位ながら、五輪を狙う有力選手が集結した04年大阪国際女子マラソンで優勝。この勝利が五輪代表をたぐり寄せる決め手になったが、その一方で、00年シドニー五輪優勝の高橋尚子や、04年9月に2時間19分41秒の日本記録(当時)を出すことになる渋井陽子、前年の世界選手権3位の千葉真子が落選したのだ。

 レースは8月22日に行なわれた。大会前から注目されていたのは、01年に2時間18分47秒の世界最高記録を出して、03年の世界選手権でも優勝していたキャサリン・ヌデレバ(ケニア)と、その記録を02年と03年に塗り替えて2時間15分25秒に到達していたポーラ・ラドクリフ(イギリス)だった。

 午後6時のスタート時、気温は35度。序盤はアップダウンもあり10kmから32kmまで上り坂が続く難コースが、日本チームには追い風になった。

 日本勢で最も期待されていたのが野口だった。事前にコースを研究し、その作戦どおりの走りをして、00年シドニー五輪で金メダルを獲得した高橋尚子に続く日本人連覇の結果を出した。

 野口を指導した藤田信之監督はこう言う。

「昨年(03年)の世界選手権は32kmからヌデレバに行かれて負けた。この暑さなら、いくら(ペースの速い)ラドクリフでも前半からは行かない。30kmを過ぎてからが勝負になるが、32kmから競技場までは下り坂。相手は脚の長い大きな選手ばかりだから、そこに入ると150cmの野口に勝機はない。

 だから、下り坂になる前に野口の特性を生かして集団を散らし、余裕を持って走らせようと思ったんです。いちばん負担がかかる25kmから勝負をし、最も傾斜がきつい28kmで決着させる、という作戦でした」

 レース当日の昼過ぎには、あまりの暑さに「本当にこんななかで走るのかな。レースが中止にならないかなと思っていた」と野口は言う。だが、スタートしてしまうと頭の中にあったのは、藤田監督に指示された「給水は絶対に取れ」ということと、「25kmからスパートしろ」という2点だけだった。

「自分で予想していたわけではないんですが、集団で行って下りで仕掛ける展開になると、スピードランナーたちがみんな行ってしまうだろうから、下りのヘタな私は絶対に対応できない、と感じていたんです。スイスの合宿で下り坂の練習はちゃんとしてきたけど、それでも何が起こるかわからない。それも理解したうえでの『あぁ、25km(での勝負)だな』と思っていました」

 最初の5kmを走っただけで「給水で失敗したら最後までもたない」と感じ、集中度が増した。さらに野口は「集団の中にいると、周りの選手の体が発する熱気で暑い」と、集団の先頭で風を受ける外側に位置する冷静な判断もできていた。ペースは当然遅いだろうと考え、タイムもまったく気にしなかった。

 それでも、スパート地点が近づくにつれて不安になってきた。本当に行けるのだろうか……。23kmあたりになると、迷いも出た。

「スパートしても、ほかの選手についてこられるかもしれない。飛ばしていっても、前半のアップダウンや暑さで思った以上に自分がバテていて、どんどん追い抜かれてしまうかもしれない」

 いろんなことを考えて、どうするか迷いながら走っていたが、25km地点へ行くと、自然に体が反応していた。

 この大会では、5kmごとのポイントのすぐあとに給水所があった。野口は25kmでも給水だけを意識し、それまでと同じようにペースアップをしてボトルを取った。そして誰もついてきていないとわかると、そのままの勢いで仕掛けたのだ。

 ただひとりついてきたエルフィネッシュ・アレム(エチオピア)は、余裕がありそうだと思いながら見ていただけに、気になる存在だった。以前走った世界ハーフマラソン選手権で、後ろについていた黒人選手にラスト数100mで逆転されて負けたことが野口の頭をよぎった。だが、27kmでアレムが遅れはじめた。

 野口のスパートの瞬間、ヌデレバがまったく警戒せず集団の後方につけていたのも幸いした。それまでの5kmは急な上り坂ということもあって、20kmまでの17分台後半のペースから、18分08秒に落ちていた。

 条件を考えればまずまず速いペースだったが、野口は25kmからの上りの5kmを16分57秒に上げた。30km通過では2位のアレムとは23秒差で、3位のラドクリフには31秒、4位のヌデレバには37秒差に開いていた。

 32kmを過ぎて下りに入り、後ろの位置を確認した野口は、2回目に振り向いた時に2位を先導するバイクのヘッドライトが小さく見え、「これで大丈夫かな」とひと安心したという。それでも、「追いつかれるかもしれない」という恐怖心は消えなかった。沿道の観客の拍手は、後ろの選手が近づいてきているようにも遠くなっているようにも聞こえ、差ははっきりとわからなかった。

 実際、32km過ぎからは、アレムやラドクリフを抜いて2位に浮上してきたヌデレバの猛追が始まっていた。35kmまでに9秒詰めると、野口が16分56秒で走った40kmまでを16分40秒で走り、差を12秒に詰めた。だが、追撃はそこまでだった。

「後ろに誰がついているかわからなかったけど、私も1kmを3分10秒くらいのいい感じで走れていました。先にスパートした私との差を詰めようとする精神的な部分と、追いつくためにけっこう飛ばさなくてはいけない肉体的な部分の両方で、向こうも絶対にきついはずだと思って……。それだけを力にしながら走っていました」

 野口は40km地点を通過して「もうすぐラストだ」と思うと、それまで重く感じていた脚が動き出した。そこからはヌデレバに差を詰めさせず、2時間26分20秒で優勝のゴールテープを切った。

「大会前の練習でも昨年よりタイムがよかったし、ケガなく来ることができたのがよかったと思います。競技場に入る手前からはスポットライトがけっこう当たっていて、グッときましたね。競技場に入った時は『この大歓声を自分のものにできたんだ』と思ってしびれました。

 応援の日の丸も見えたのでうれしくてガッツポーズもしたけど、あとで映像を見たら2位にかなり迫られていたので、ガッツポーズしている場合じゃなかったなと思いました」

 そう言って笑顔を見せた野口だが、ゴール後のホッとした瞬間に吐き気がしてきたという。過酷なレースで軽い熱中症にかかっていたのだ。

 ヌデレバは結局12秒差。35kmまでは3位につけて、前を追う意地を見せていたラドクリフは、36kmで棄権した。特殊なコースをしっかり研究して勝負をかけた野口の戦略が、ピタリと当たった結果だった。そしてこの勝利は、世界記録保持者と世界選手権女王と戦って得た、価値の高い勝利でもあった。

 他の日本勢は、土佐が「野口さんのスパートは予想外だった」と25kmから遅れたが、その後をしっかりまとめて2時間28分44秒で5位になった。坂本直子も武富豊監督から25kmでスパートしろと言われていたが、「序盤のアップダウンで脚を使いすぎていた」と後退。それでも2時間31分43秒でゴールして7位を堅持。これは92年バルセロナ五輪の男子につづく、日本女子史上初のトリプル入賞だった。

 野口は、高校時代はインターハイで全国大会には出場したが無名選手だった。卒業後に藤田監督に師事して頭角を現し、”ハーフの女王”とも称された。その身長に合わない大きなストライドの走りは、周囲から「マラソンは無理だ」とも言われていたが、藤田監督の「あの走りでマラソンを走らなければ世界とは戦えない」と話していた。その思いを証明したのが、野口のアテネ五輪制覇でもあった。

 野口は翌05年9月のベルリンマラソンで、2時間19分12秒の日本記録をマーク。さらに、07年11月の東京国際女子マラソンでは、一緒に走っていたサリナ・コスゲイ(ケニア)を、上りが始まった36km過ぎから突き放し、そこから1分54秒差をつける圧巻の走りを見せて優勝した。

 ところが、08年北京五輪では大会直前にケガをしたために、残念ながら欠場となった。前年までの野口の充実度を見ると、もし出場できていれば確実に五輪連覇を達成していたはずだ。

 そのくらい、あの時の野口は、誰にも負けない強さを誇っていた。