PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第18回

いよいよ今年7月に開幕する東京オリンピック月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2004年アテネ五輪の男子柔道で、60kg級から66kg級に階級を上げたばかりの内柴正人が獲得した金メダルは、人々を驚かせた。なぜなら、五輪では65kg級だった84年ロサンゼルス大会で優勝した松岡義之以降、世界選手権でも93年の中村行成以降、日本人選手はこの階級で金メダルに届いていなかったからだ。



アテネ五輪男子柔道66kg級で金メダルを獲得した、内柴正人

 国士舘大学2年生だった99年当時から内柴は60kg級王者の野村忠宏を追う存在と注目され、野村が休養していた02年には全日本選抜柔道体重別選手権を初制覇。アジア大会では3位を獲得した。11月の講道館杯全日本柔道体重別選手権では優勝こそ逃したが、これが復帰戦だった野村を準決勝で破り、頂点を狙う状況は整ったかに見えた。

 だが、世界選手権大阪大会の最終選考会となった03年全日本選抜選手権では、減量に失敗して体重オーバーで失格。戦わずして敗れ、世界選手権代表は野村の手に渡った。

 失格したその日に、内柴は全日本の斎藤仁ヘッドコーチや担当コーチと「階級を変えて頑張る」と約束した。だが本心では、60kg級への未練もあった。

「気持ちは乗らないし、柔道界にいること自体もつらかった。『次に野村に勝つのは誰だ? 俺だろう』と自信をつけていたのに、勝負の舞台にさえ上がれないで終わったわけですから。国士舘大の学生に会うのもきつかったですね。自分は60kg級から逃げたんだ、という気持ちも強く、地元に帰ろうかとも悩んでいたし、66kg級に上げても本気でやる気にならなかったんです」

 それでも3月に結婚したばかりの妻といると、「この人に悪いことをしたな。どうして喜ばせてやろうかな」と思った。そう考えると、もう一回ひのき舞台に立ちたい気持ちが強くなった。「強化選手からも外されて、ただの柔道好きの一般人になっていたから、そこからスタートして五輪を目指すのも面白いんじゃないかと思った」と笑顔を見せた。

 そして、アテネ五輪の66kg級代表へ向けた戦いの第一歩となる03年11月の講道館杯で優勝し、翌年2月にはドイツ国際でも優勝した。さらに、五輪最終選考会だった04年4月の全日本選抜選手権でも勝利して、初の五輪代表の座を手にした。

 やっと出場がかなった五輪だったが、内柴はまったく緊張しなかった。遊びに行くような気持ちで、試合の日が来ても楽しくてしかたなかった。五輪前の強化合宿では、勝ちたくてしかたない憧れの選手だった野村を質問攻めにした。そして、技術だけではなく、五輪で勝つ秘訣を「腹を決めること」だと教えられた。それを心に刻んで臨んだ試合では、自身のひらめきを信じるのびのびした戦いを貫くことができた。

 1回戦は多彩な技を繰り出して攻め続けると、払い腰を見事に決め、1分55秒で一本勝ち。2回戦はアジア選手権で一本負けしているダシュダバ(モンゴル)が相手だったが、矢継ぎ早に技を繰り出して相手を圧倒。2分ちょうどに巴投げで一本勝ちした。

 勢いはさらに加速していった。準々決勝はジャハロフ(ロシア)の右釣り手を外側から決めたまま押し込んで、1分40秒に浮き落としで一本勝ち。準決勝のゲオリギエフ(ブルガリア)も巴投げで崩したあと、起き際に相手の下にもぐり込んでそのまま肩車で倒し、43秒で勝負を決めた。

 決勝ではクランツ(スロバキア)の大外刈りを抱えるようにして防ぐと、そこからもつれあったところで小外刈りを放って相手の背中を畳に付け、1分46秒で勝利した。5試合ですべて違う技での一本勝ち。内柴は、出身校・国士舘大の粘りとしつこさを身上とする柔道を貫き、あっさりと金メダルを獲得した。

 その数日後に話を聞くと、内柴は開口一番に「決勝は、カッコ悪い形になりましたけどね」と苦笑いを見せた。

「練習していた袖つり込みと足払いをイメージしていたから、自分の理想とする技で投げられなかったのはちょっと悔しいですね。でも、彼(クランツ)が決勝まで来たのがすごいだけで、実際にはあまり強い選手ではなかった。偶然と言えば偶然だけど、自分のほうが強いからああいうふうになったんです。準々決勝で戦ったジャハロフとか、3位になったアレンシビア(キューバ)のほうが強いですよ」

 内柴は、階級を変更した当初は66kg級で戦うのが怖かったという。力負けする相手を、動きで崩してから技に入らなければいけないが、それがうまくできないのではないかと思っていたのだ。だが、慣れてくるとたった6kg重いだけでも相手の動きが遅く見えてきた。日本の60kg級で勝負してきた「自分の動きに相手はついてくることができず、技にも入りやすい」と感じるようになった。

「最軽量級の選手は、攻めることに関しても守ることに関しても超一流だと思っているから、そのプライドはありました。60kg級では技術のない自分でも、練習と研究をやっていけば必ず追いつける、この柔道で攻め通せば何とかなる、そう信じて続けてきました。本当に66kg級は違いましたね。60kg級の時は5分間競って、小さいポイントでも取って勝てばいい、という柔道をしていたので、オール一本勝ちをしたことはなかったんです。それなのに今回は、2分以内で全部一本勝ちですからね」

 何もかもが初めて経験することばかりだった、というアテネ五輪。思いもよらぬ快進撃の結果について、内柴は目を輝かせながら話した。自ら「才能がない」と言う彼は、普通の練習なら中学生と張り合う程度の力だと苦笑する。だからこそ、トップで勝つためには相手を研究して技を組み立て、自分のリズムをつくり上げる作業が必要だと考えた。

 それに見合った練習量も必要だったが、体力を上げて戦おうと練習をすれば、筋肉もついて体重は重くなる。60kg級時代、内柴は毎回の減量が10kgにおよび、幻覚が見えるほどの過酷な減量を10年近く繰り返していた。それほどまでに、60kg級で頂点に立ちたいと思っていた。だからこそ、66kg級に変更したアテネでは、その頃の自分のためにも金メダルを獲ると決意していた。

「昔は、体力を上げながら体を小さくして、その中で戦おうとしていました。でも、今はどんどん大きくなろう、力強さもスピードも全部上げていこう、という作業だけだから、本当に楽しいですね。メダルを獲りにいくだけなら60kg級でもよかったかもしれないけど、本当の強さを求めるという点では66kg級に上げて正解でした。これまでとはまったく違う楽しさがありますよ。この階級は天才じゃなくても試合で勝てますから(笑)」

 五輪選考会では1回戦や2回戦を勝っただけで、喜びが爆発して涙を流していた、と言って内柴は笑う。だが、いちばん感動するだろうと思っていた五輪では、優勝しても泣けなかった。終わった瞬間には翌年の世界選手権のことが頭に浮かび、「来年はきついぞ!」と思って「震えが来た」と言うのだ。

「66kg級にデビューして1年。自分はまだこの階級では新人だし、もうちょっとチャレンジャーでいたいですよ。だから、日本に帰ったらメダルはどこかへしまって、もう一回やり直そうと思います」

 そう言って、ほがらかに笑った。

 その後、05年世界選手権は決勝でデルリ(ブラジル)に敗れて2位に終わった内柴は、07年世界選手権では代表入りを逃した。だが、08年北京五輪には出場し、準決勝ではアテネで対戦していなかったアレンシビアを優勢勝ちで降すと、決勝はダルベレ(フランス)を縦四方固めで破って五輪連覇を果たした。

 のびのびとした気持ちで、思う存分に柔道へ打ち込んだ結果が、五輪連覇につながったのだった。