東海大・駅伝戦記 第78回

「館澤が本当にすごい走りをしてくれて……すごくうれしかったです」

 箱根駅伝で総合2位に終わったあと、西川雄一朗(4年)は涙をぬぐいながらそう話した。

 西川は副キャプテンとして、主将の館澤亨次(4年)がケガで離脱している間、チームを支えてきた。ストイックな性格で自分にも他人にも厳しく、両角速監督からも絶大な信頼を寄せられていた。

 前回と同じ3区を任された西川は「昨年以上のタイムを出し、優勝に貢献する」と心に決めて臨み、前回よりも40秒も縮めたが、それ以上の走りをする選手が続出し、結果的にトップに大きく引き離されてしまった。往路が終わり、トップの青学大に3分22秒差をつけられたことに責任を感じた西川は、悔し涙を見せて頭を下げた。



箱根駅伝6区で57分17秒の区間新記録をマークした東海大・館澤亨次

 館澤はその姿を、目に焼きつけたという。

「自分は夏からケガをして、主将として何もできなかった。その間、西川が全部支えてくれていたんです。そんな西川が涙を流しているのを見て、悔しいなって思ったんです。ここまで自分の代わりにいろいろやってくれた西川を、そんな思いで終わらせるわけにはいかない。笑って終わってほしかった」

 館澤のモチベーションは最高潮に達していた。4年生として、主将として臨む最後の箱根駅伝。復路にも強い選手を残している青学大を逆転するには非常に厳しいタイム差だったが、館澤は「みんなも自分も(逆転優勝は)いけると思っていた。誰ひとりとしてあきらめていなかった」と言った。

館澤は「自分の走りで流れをつくろう」と決意し、ここまで支えてくれた西川への恩返しの気持ちを込めて、6区のスタートラインに立った。

 館澤は5秒前にスタートした3位の東京国際大にすぐに追いつくなど、上々のスタートを切った。

「自分は下りでは戦えないと思っていたので、最初の上りとラスト3.8キロの平地に入ってからが勝負だと考えていました」

 下りは平凡でも、その前後で差を詰めていく——山下りに館澤を起用した両角監督は「6区の新しいモデルケースになる」と思ったという。

「今まで6区は、下りが得意ということで選手を選んでいたんですけど、館澤は上りが得意なので、そこで稼いで、下りではほかの選手と変わらず、最後の平地で再び攻める。新しい6区の走りというのを示せたと思いますね」

 館澤は上りで後続を突き放し、前をいく国学院大と青学大を追った。最初の芦之湯ポイント(4.8キロ地点)で45秒詰めて、トップの青学大と2分37秒差になった。一気に逆転の期待が高まり、館澤の走りは何かを起こしてくれそうな気配を漂わせていた。

 館澤が6区を打診されたのは、12月に入ってからだった。

「『6区いけるか?』って監督に聞かれて……。自分も含めて3人候補がいたんですけど、走力的には自分が一番よかったですし、期待されていたのでやるしかないなと」

 そうは言っても、簡単にことは運ばなかった。じつは11月末の合宿に参加した時、体重は66キロあり、ベスト時よりも4キロオーバーしていた。ごはんが大好きで、リハビリ中もしっかり食べていたので体重が落ちなかったのだ。「そんな体では箱根は走れない」と両角監督に言われ、まずは食事制限から始めた。

 さらに、箱根の距離に対応すべく、ジョグを25キロに設定した。そうして12月のクリスマス合宿の頃になると、ポイント練習でもいい感じで走れるようになり、体重も4キロ落ちた。あまり調子が上がらない選手がいるなか、館澤は山下りができるところまで整えてきたのである。

 レース当日、スタートする館澤はこんな思いを抱いていた。

「ケガの不安や怖さはなかったです。100%ではなかったのですが、今日はケガをしてもいいかなという思いでスタートラインに立ちましたし、序盤から飛ばして足がぶっ壊れても58分30秒を切って襷をつなごうと。ケガよりも、最初から攻めて足が持たなくなることのほうが怖かったですね」

 序盤から順調な走りを見せたが、下りに入ると青学大との差があまり縮まらなくなった。

「下りに入ると余裕がなくなって、何度か止まりそうになりました」

 そして、下りを終えるラスト5キロ地点で足に異変を感じた。足の裏に焼けるような痛みを感じたのだ。

「絶対になんかおかしくなっていると思ったんですけど、見なきゃ大丈夫だと。でも、終わってから見ると、かかとにすごく大きな血豆ができていて。もう足がつけないぐらい痛かったです」

 激痛に耐え、山を下った疲労感いっぱいの館澤を覚醒させたのが、両角監督の声だった。

「館澤、おまえすごいぞ! 57分30秒だせるぞ」

 その頃、時計を気にしていなかった館澤は「そんなわけない」と思ったが、その檄がムチとなり、ギアを落とすことなく最後まで走ることができた。

 そしてもうひとつ、館澤を勇気づけたのがチームメイトだった。ラスト1キロ手前のところに、往路を走ったメンバーと關颯人ら4年生の仲間が駆けつけ、応援してくれたのだ。

「一番きついところでみんなが来てくれて……。これは頑張らなきゃと思いましたし、その応援が最後の粘りにつながったと思います」

 館澤は体全体をフルに使った走りで駆け抜け、7区の松崎咲人(1年)に襷を渡すと、その場で倒れ伏した。何もできない、何も考えられないほど、館澤の体のなかのエネルギーは空っぽだった。この館澤の渾身の走りが、松崎や8区の小松陽平(4年)らに勇気を与えた。

「春先は1500mで飯澤(千翔/1年)に負けて、キャプテンとしての意地を見せられないシーズンでしたし、ケガをしてからは箱根まで何もできなかった。最後の最後で、主将としての意地を見せられたかなと思います」

 その走りに、両角監督は心を揺さぶられたという。

「館澤は、言わばぶっつけ本番でしたし、タイムも58分30秒ぐらいを想定していたんですが、それよりも大幅によかった。さすが日本選手権で2回勝っている選手だな、さすが館澤だなって思いました」

 今回の箱根駅伝の敗因の一端として、両角監督は「爆発力に欠けた」と話していたが、東海大で唯一、爆発した走りを見せたのが館澤だった。区間新記録となる57分17秒という驚異的なタイムで流れをつくった館澤に、運営管理車に乗る両角監督から「ありがとう!」の言葉が飛んだ。

 レース後、ドーピング検査があったため、館澤は少し遅れてチームに合流した。区間新を叩き出し、最後の箱根で意地を見せた館澤に多くのメディアが集まった。

 館澤をはじめとする現4年生は、1年の時から”黄金世代”と称され、そのなかで出雲駅伝、全日本大学駅伝、そして箱根駅伝と3つのタイトルを獲得するなど、その名に恥じない結果を残してきた。そういう強い世代だっただけに、最後の箱根で主力が揃って箱根を走っていたらどうなっていたのか。そのことを館澤に問うと、こんな答えが返ってきた。

「最後に全員揃わなかったけど、それは下級生が力をつけてきたからですし、チームが成長した証でもあると思うので、いいことだと思います。僕はこの同級生でやってこられてよかったですし、このメンバーでなければ自分はここまで成長できなかった。今回、箱根のメンバーに入れなかった4年生も、ヘソを曲げることなく、チームのために尽くしてくれた。關もケガで苦しんでメンバーに入れなかったけど、最後は応援しに来てくれて……その姿が見えた時はうれしかったし、ありがたかった。直接、襷リレーはできなかったけど、彼らの思いを受け取ることはできた。自分が最後に出した区間新は、同級生やチームメイトの支えがあったからだと思います」

 最後にみんなで笑うことはできなかったが、チームとして得るものはたくさんあった。塩澤稀夕や名取燎太(ともに3年)や松崎が快走し、来年の箱根につなげた。彼らが成長したのは、館澤らの黄金世代の存在があったからである。競技に対する姿勢や意識、そして結果を出すことなど、黄金世代と呼ばれる4年生は多くの財産を残して卒業することになる。

「先輩たちの背中が大きかったんだなぁ……と、今回の箱根を戦ってあらためて思いました」

 西田壮志(3年)はしみじみとそう言った。

 この西田をはじめ、館澤の最後の走りは後輩たちに何かしらの影響を与えたことだろう。4年生が卒業し、チームは新たなスタートを切るが、館澤は心配していないという。

「塩澤、名取、西田が引っ張って、下級生も『次は自分だ』という思いでやってくれれば、またすごい選手が出てくる。来年は箱根を勝って、今年の悔しさを晴らしてほしいですね」

 館澤と話をしていると、いろんなことが走馬灯のように駆けめぐる。

 2年の後半から1500mで勝てなくなり、どん底まで落ち込んだ。3年になって吹っ切れると、関東インカレや日本選手権で優勝。駅伝では、連覇のかかった出雲で敗れて、ひとり号泣していた。箱根駅伝で初優勝したあとは緊張感のないチーム状況を憂い、主将として悩み続けた。いろんなところで壁にぶつかり、悩み、涙して、成長してきた。そんな館澤には、心から「お疲れさま」という言葉を贈りたい。

 箱根駅伝が終わり、厳しい練習と節制の生活も終わった。

「明日から筋肉痛とかヤバいっすね。でも、ハンバーガーとか食べられるんで(笑)」

 いろんなものから解放された大学4年生の素顔が、そこにはあった。