2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今青木孝太(1)年末年始に行なわれる恒例の全国高校サッカー選手権大会。今から14年前、普段は名のある強豪が上り詰める『優勝』の座に、突如無名の高校が輝き、ファンの熱狂を呼んだ。卓越した…

2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今
青木孝太(1)

年末年始に行なわれる恒例の全国高校サッカー選手権大会。今から14年前、普段は名のある強豪が上り詰める『優勝』の座に、突如無名の高校が輝き、ファンの熱狂を呼んだ。卓越したボールテクニックとコンビネーションで、セクシーフットボールと言われた滋賀県の野洲高校だ。当時のメンバーに話を聞いた。

◆ ◆ ◆

「サッカーを辞めてから初めてですよ、取材受けるの」

 青木孝太は柔らかな関西弁のイントネーションでそう言った。人のよさそうな笑顔は、Jリーガーだった頃と変わっていない。違いがあるとすれば、少し輪郭に丸みを帯びたことぐらいだろうか。



2005年度の全国高校サッカー選手権。優勝した野洲高のエースストライカーとして活躍した青木孝太

 現役時代の青木はフィジカルとスピードを生かし、左足の強烈なシュートを武器にしたストライカーだった。その名前が全国に知れ渡ったのが、高校3年時に出場した全国高校サッカー選手権大会。優勝した野洲高校のエースとして、初戦から決勝戦までの全6試合に出場し、3ゴールを決めた。

 高いテクニックに裏付けされた、クリエイティブなプレーを連発する野洲高のサッカーは『セクシーフットボール』と名付けられ、鹿児島実業との決勝戦には多くの観客が詰めかけた。

 技巧派揃いの野洲高の中で、青木のプレーは異彩を放っていた。猪突猛進。スピードとフィジカルを前面に押し出し、相手が寄せて来ようとも、お構いなしにドリブルを仕掛け、左足を強振した。

「You Tubeとかで当時の映像をたまに見るんですけど、ゴールを目指して一直線。前にしか進んでないんですよね。やばいなぁ、こんなプレーしていたのかと思いますね(笑)」

「絶対に自分がゴールを決める」というエゴイスティックなプレーで野洲高の攻撃を牽引し、テクニックとスピードの野洲スタイルにパワーをもたらしたのが青木だった。

 そんな青木の一番の”被害者”は、乾貴士だろう。1学年下の乾は、2年生ながら攻撃のキーマンとして躍動。持ち味のドリブル突破を武器に、チャンスを量産した。

「タカシ(乾)は僕に対して、しょっちゅうキレてましたよ。『パスを出しても戻って来ない』って。たまに、僕がドリブルで前に突き進んで、詰まって後ろに返そうとするじゃないですか。でも、タカシはいないんです。どうせパスが来ないだろうということで、サポートに来ていない。『ひとりで行ってくれ』って言ってましたね(笑)」

 高校では唯我独尊タイプのストライカーだった青木。しかし中学時代は、「監督の顔色を見ながら、怖がってプレーしていた」と言う。

「僕は中学校からセゾンFCに入ったんです。小6のときに練習会に参加したのですが、同級生のニッチョや研は小学1年生からセゾンにいたので、めちゃくちゃうまくて。それまでは運動神経でなんとかやってきたんですけど、これはヤバいと思いました」

 ニッチョとは、野洲高優勝時のキャプテン・金本竜市であり、研は野洲で10番をつけていた平原のことである。

「あまりに周りがうまいのと、監督が怖かったので、クラブに入ろうかどうか迷っていたんです。順平がいなかったら、僕はセゾンに行ってなかったでしょうね」

 順平こと楠神順平は、野洲高の優勝メンバーであり、後にセレッソ大阪や川崎フロンターレ、清水エスパルスでプレーするJリーガーだ。楠神と青木は、小学生時代の地区選抜で一緒にプレーする仲だった。互いに能力を認め合うふたりは、中学生になるとセゾンFCに入部した。

 中学時代に教わったのは、相手の逆をとることと、選手全員が同じイメージでプレーをすること。11種類のドリブル、シザーズや引き技などをトレーニングし、ひたすら試合形式の練習をすることで、実戦的な技術を身につけていった。青木は「セゾンに入って、初めてテクニックを学びました」と振り返る。

 セゾンFCでは技術に加えて、「プレーで相手の逆をとること」について徹底的に指導された。ミスをすると、監督から叱責が飛んできた。

「『相手の逆をとれ!』と言われても、正直どうすればいかわからないんです。下手くそなりにボールを引いたり、シザーズをしたりするんですけど、ミスすることも多かったです。だから僕はなるべくボールを受けないように、味方の後ろに隠れていました。ミスをして、監督に怒られるのが怖いから。ほんまですよ」

 中学時代は「恐怖に支配されながらサッカーをしていた」と語る青木。そんな中、楠神の存在が青木の支えになっていた。

「順平はほんまにすごいヤツで、僕らみんな監督にビビっていたのに、あいつだけ平気なんです。試合中も僕がボールを持っておどおどしていたら、『俺に出せ!』って感じで近寄ってきてくれて。当時は漫画の『スラムダンク』が好きでよく読んでいたのですが、順平を流川楓のように思っていました。ドリブルがめちゃくちゃうまくて、プレーに華がありましたし」

 青木は中学3年生のとき、静岡学園高校に行こうと考えていた。「静学に行って、Jリーガーになりたい」と思っていたのだ。しかし、中学3年時の最後の大会で、悔しい負けを経験をしたこと、翌年からセゾンFCの岩谷篤人監督が野洲高のコーチになり、中学時代のメンバーのほとんどが野洲に進学することを聞き、青木もそれならばと仲間と同じ道を歩むことに決めた。

「中学時代の監督――岩谷(篤人)さんは怖かったんですけど、この人の下で、このメンバーでサッカーをしていると、うまくなるのがわかるんです。ほかのチームと試合をしても、ニッチョや研、順平やタカシよりうまいやつはいないぞと。それを見て、自分の自信にもなるじゃないですか。高校に行ってもみんなでサッカーをしたほうが楽しいし、絶対に強くなると思いました」

 野洲高に入ると、青木は覚醒した。山本佳司監督(現・総監督)は選手に自由を与え、伸び伸びとプレーさせる方針だった。

「僕は高校に入って、一気に伸びたと思います。山本先生はほんまに優しかったんで、サッカーをするのがどんどん楽しくなっていったんです」

 中学時代、パスを受けることを怖がっていた青木は、いつしか「俺に出せ!」と強く主張するようになっていった。

 技術が高く、負けん気の強い集団だった野洲は、チームメイト全員がライバルという関係だった。紅白戦ではBチームの選手がAチームの選手に対して、削る勢いでタックルを仕掛ける。

「サブの選手に削られたら、ゴリ切れしてましたね。みんな、自分がいちばんうまいと思っていましたし、どこのチームと試合をしても、負ける気がしませんでした」

 テクニックとコンビネーションに自信を持っていた野洲高は、全国レベルの強豪と練習試合をしても、負けることがほとんどなかった。唯一、勝てなかったのがガンバ大阪ユースである。

 当時のガンバ大阪ユースには植田龍仁朗、安田理大、平井将生、横谷繁、伊藤博幹、岡本英也がいて、この6人はユースからトップチームに昇格。『G6』と呼ばれるタレント軍団を相手に「勝てはしなかったけど、毎回、6-5や7-4のような点の取り合いになっていました」という。

 全国的な知名度はないながらも、同世代のプロ予備軍と互角に渡り合っていた野洲高。中盤から前線の選手を野洲高メンバーで固めた滋賀県選抜は、9月の国体で千葉、群馬に次ぐ3位になった。この頃から、一部の高校サッカーファンの間から「野洲は強いらしい」という声が出始めた。

 青木たちが最高学年となって迎えた、全国高校サッカー選手権大会滋賀県予選では、準決勝で草津東、決勝で北大津を下して優勝。高校3年時に、ようやく全国への切符を手に入れた。

 そして迎えた、第84回全国高校サッカー選手権大会。「優勝することしか考えていなかった」(青木)という、野洲高の快進撃が始まった。

(つづく)