髙橋大輔、シングル最後の舞台は全日本選手権だった スタンドの一角、低く通る声が口火となったか。「大ちゃん!大ちゃん!」 大勢の観衆の歓声が一つになり、そこに手拍子が重なり、会場を覆った。手を叩くひとつ一つの音が胸に迫って、感情が波を打っ…



髙橋大輔、シングル最後の舞台は全日本選手権だった

 スタンドの一角、低く通る声が口火となったか。

「大ちゃん!大ちゃん!」

 大勢の観衆の歓声が一つになり、そこに手拍子が重なり、会場を覆った。手を叩くひとつ一つの音が胸に迫って、感情が波を打っていた。それは一瞬の永遠だった。

「会場をひとつにしたい」

 スケーターとしての信条をそう語っていた男は、見事にそれをやり遂げてしまった。

「実は、シングル引退って周りに言われるほど、実感がなかったんです。でも、あんな演技だったのに、お客さんが拍手してくれて、立ち上がって声援をくれて。皆さんが作ってくれた温かい空気に、”ああ、これで最後なんだな”って思って……。今でもしゃべっているだけで、うるっとなってしまうんですけど」

 彼は声を震わせながら言った。胸が思いの重みで塞がり、小さく嗚咽が漏れる。涙は堪えたが、目は赤く腫れていた。

「こういう場所に立てたことが幸せで。あんまり格好良くないのが、僕らしい終わり方なのかなって思います」

 髙橋大輔はそう言って、シングルスケーターとしての長い物語の幕を閉じた。

 12月22日、国立代々木第一体育館。全日本選手権のフリースケーティングに向けた公式練習、髙橋は体が思うように動かない様子だった。前々日のショートプログラムでは、14位に低迷していた。

 髙橋は全日本を迎えるまで、練習の積み上げ、追い込みが満足にできなかった。10月のジャパンオープン後、左肩を痛めたことで、連鎖的に体のバランスが悪くなったという。11月の西日本選手権直前に左足首を痛め、満足に練習もできなかった。ジャンプへの影響はカバーできず、翼を失ったような状態になっていた。そして右膝の古傷があるうえ、33歳という年齢も、回復力の不安としてのしかかってきたのだ。

 今シーズン初めての試合でショートを演じ、その消耗は想像以上だった。

「(ショートプログラムに選んだ「The Phoenix」はアップビートで)力の配分が難しくて。どこか痛くなると、かばっているうちに、次はまた別のところって、体にきちゃいました。例えば朝から(の練習は)テンション的にも厳しかったり……。まあ、なかなかやろうと思わない曲なんで」

 髙橋はそう言って笑ったが、ダメージは相当だった。

 フリー当日の公式練習、髙橋は曲かけでポーズだけはとったものの、ジャンプは一本も跳んでいない。それどころか、リズムをとったり、コースを確認することもなく、クールダウンに使った。そして曲の途中で中心に戻って挨拶し、足早にリンクの外へ出た。

 髙橋は残ったエネルギーを、すべてフリーにぶつける気だったのだ。

 フリーの「Pale Green Ghosts」が流れる直前だった。

「大ちゃんガンバ!」

 その声援を聞いた髙橋は、ふっと短く息を吐いている。全力を出す準備を整えるように。そして冒頭の3回転フリップは、渾身で着氷した。世界王者になった男の意地だ。

 しかしトリプルアクセル+2回転トーループの後者が乱れると、3回転サルコウは成功も、トリプルアクセルはダウングレードだった。3回転ルッツ+2回転トーループもエッジエラーで、3回転ループは決めたが、最後の3回転フリップは転倒した。倒れそうで、倒れない姿に自負心を感じさせたが、それすらも打ち砕かれる。

 フリーは10位に終わった。

 ただ、髙橋らしさも見せている。そのスケーティングは全盛期に匹敵するほど、迫真だった。流れる曲を体の動きとエッジで表現し、音を掬い取っていた。事実、演技構成点は85.28点のハイスコアで、参加選手中3位だった。

「次(のジャンプ)、次って必死すぎて。なんとかしなくちゃって、どうにもできなかったです。自分をずっと応援してきてくれたファンの人たちは、こんな髙橋は見たくなかったかもしれませんが」

 演技後、髙橋は無念を語った。

「僕も日本でチャンピオンになって世界で戦ってきて、そのプライドはありましたけど、それを捨てられて。本当は恥ずかしくて惨めかもしれないし、できないのはわかっていました。でも、(復帰して)やっていく中で、経験できたことも多かったです。33歳でスケートやっていてもいいんだよ、って少しは見せられたかなって。最後は、情けないな、ごめんなさい、っていう気持ちですけど」

 彼はそう言って頭を下げたが、その真摯さに人は胸を打たれるのだ。

 マイナースポーツの域を出なかったフィギュアスケート男子を、髙橋は牽引してきた。2010年バンクーバー五輪では銅メダル、同年の世界選手権では日本人男子として初めて優勝した。そして昨年は4年ぶりに復帰し、全日本で2位。今シーズンも、33歳でリンクに立つ姿を見せた。

 最後の全日本は総合で12位だが、その姿は眩しかった。

 同じ元世界王者のハビエル・フェルナンデスに、髙橋の現役復帰について訊いた時、啓示的な言葉を口にしていた。

「それぞれの人に、それぞれの決断があるよ。(髙橋)大輔とは長い間、話をしていないけど、彼は気さくでいい男だよ。めちゃくちゃ、尊敬している。彼が戻ってきたのは、それだけの理由があると思う。きっと、衝動があったんだろう。だから、絶対に失敗はしない。繰り返す、絶対に、だ。なぜなら、あれだけのことを成し遂げた大輔が決断したんだから。1位であろうと、ビリであろうと、それはすでに成功なのさ」

 髙橋は、シングルスケーターとして至高のフィナーレを飾った。2度目のアンコールはないだろう。来年からは、アイスダンス転向が決まっている。

「もう、(シングルは)ムリっす!」

 快活に言う髙橋は、戦い尽くした男だけに許される健やかな顔つきになっていた。