根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第5回証言者・愛甲猛(5) 1981年4月6日、川崎球場での…

根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実

連載第5回

証言者・愛甲猛(5)

 1981年4月6日、川崎球場での対西武戦。ロッテ入団1年目の愛甲猛はプロ初登板を果たした。3対7と劣勢の8回、三番手での"敗戦処理"だったが、山崎裕之に本塁打を浴びるなど3失点。6月25日には同じ西武戦で初先発するも、初回から乱調で2回持たずに降板。2000年まで20年間続いた現役生活は、根本陸夫が監督を務めるチームに痛い目に遭いながら始まっていた。実際、新生ライオンズにどんな印象を持っていたのか──。愛甲本人に聞いた。



ロッテを自由契約となり、1996年から中日でプレーした愛甲猛

「まずユニフォームから斬新でしたよね。ベルトが野球用の形じゃなかったり、手塚治虫さんのレオ(『ジャングル大帝』)がペットマークだったり。それで僕は最初、ファームの試合でよく投げていたんですけど、西武のバッターは手袋をしてなかったんです。聞いてみたら、『素手でバットを振る感覚がわからないで打てるわけがない。わかってから手袋するようにしろ』って、根本さんから通達があったらしくて。そういうところまでちゃんと管理されているのか、と思って見てました」

 同じファームで驚かされたのが、81年にドラフト外で西武に入団した2人の新人選手だった。秋田・金足農高出身で投手の小野和幸と、熊本・八代高出身で外野手の秋山幸二。いずれも愛甲と同世代で、小野はイースタンで歴代最多の15勝を挙げ、シーズン終盤に一軍登板を果たす。一方の秋山はバットに当たれば途轍もない飛距離を見せていた。

「どこまで飛ばすんだ? コイツ......って言いたくなる打球ですよ、秋山は。よその球団だったら、いきなり一軍でしょう。でも西武は二軍でみっちり鍛え上げて、アメリカの1Aで野球留学も経験させて、4年目から本格的に一軍でゲームに出したらもう下に落とさなかった。スターをつくる、育てる、チームの人気を高めていく上での戦略もすごかったと思います。それはロッテにはなかったし、瞬間的な気分で『ファームに落とせ』って言う監督もいたぐらいで」

 ドラフト1位で入団した愛甲にすれば、「これだけの選手をドラフト外で獲るのか」という驚きもあった。と同時に「よそのスカウトが目をつけない選手に目をつけて発掘してくるんだな」と想像するほど、弱冠19歳にして球団の戦略を興味深く見ていた。それにはワケがある。西武の新人補強に暗躍していたプリンスホテル総支配人、幅敏弘が父親代わりだったからである。

 幅はプリンス硬式野球部のスカウティングにも携わり、西武監督兼管理部長の根本を裏で動かすフィクサーだった。西武グループ総帥で球団オーナーの堤義明はプリンスの社長でもあり、堤と近い位置にいる幅は根本にとって頼りになり得る存在。言うなれば、裏の裏で動いた幅と実質的GMの根本がタッグを組んだ結果、後の西武黄金期の下地がつくられた。そうした関係性があったから、幅を「オヤジ」と呼んだ愛甲はプロ入り前から根本とも面識があった。

「根本さんは西武の監督、管理部長、という印象が変わったのは、オヤジと僕が一緒にいて、根本さんもおられる時。面会に来た人が根本さんに接する態度を見ていて、この人は普通の人じゃないんだな、と思って。だんだんと球界内での根本さんの立ち位置がわかってきたら、とんでもない人なんだと気づきました。僕ら西武と対戦した選手の立場からすると、広岡(達朗)監督、森(祇晶)監督でさえ、全然、頭が上がらなかった人、というだけですごすぎるんですよ」

 フロント入りし、実質的GMになった根本に代わって広岡が監督に就任した82年から、西武は2年連続で日本一。広岡に代わって森が監督に就任した86年からは3年連続日本一になると、1年おいて90年から再び3年連続日本一、リーグ5連覇。まさに黄金期を迎えた一方、ロッテは低迷し、Bクラスが続いていた。

 その間、落合博満の助言もあって打者に転向した愛甲は、徐々に打力が向上。落合を師と仰いで技術を高めると、86年からレギュラーに定着。88年から92年にかけて535試合連続フルイニング出場も達成(2018年に西武・秋山翔吾に破られるまでパ・リーグ記録)するなど、ロッテの中心選手となった。そうして迎えた93年=FA制度導入元年、権利を取得した愛甲に1本の電話が入った。シーズンオフ、ロッテが中日と合同で韓国遠征に行っている時のことだ。

「電話は西武の森監督からでした。『ウチはFAで獲れないけど、レフトを空けておく。いったんロッテを自由契約になってうちに来い』と。僕はもともと、幅のオヤジに『とりあえずロッテに行っとけ。あとで西武に引っ張ってやる』って言われていたし、当時、根本さんはもう西武にいなかったけど関係あるのかな、と思いました。結局、実現しなかったわけですが、オヤジと根本さんの顔が思い浮かんで悩みましたね。FA宣言するかどうかも悩んでいたので」

 最終的にロッテ残留を決めた愛甲だったが、95年、広岡がGMに就任し、監督にボビー・バレンタインを招聘。チームの体制が大きく変わったなか、広岡との間に確執が生じる。GMの立場を超え、まるで監督のように選手を管理する広岡に疑問を持ったのが原因だった。周りは「日本球界初のGM」に注目したが、チーム内には険悪なムードが蔓延していた。

「チームをどうやって強くしていくか。GMはそこに尽力しなきゃいけないのにもかかわらず、ストッキングの履き方を注意しに来たり、キャンプでベテランの調整方法を認めなかったり。アリゾナキャンプに行った時には、現地の知り合いの店の商品を選手たちに買わせたり......。何をしたいのか、わからなかったです。僕は日本のプロ野球で初めてGMの仕事をしたのは根本さんだと思っているし、その根本さんと比べたら雲泥の差ですよ」

 愛甲に限らず選手間で疑問を持たれたのは、GM補佐の高木益一。「広岡の子飼い」だった高木は監督然とした態度で選手に接し、技術的な物言いをしては練習に口を出していた。主力選手の多くは高木に反発し、必然的に広岡との関係も悪化した。

 シーズンに入って6月、愛甲は二軍降格を命じられた。理由は理不尽なもので監督に不満を述べると、「すまない。私にはあなたを守る権利がない」との返答。明らかにGMが人事権を握っていると判明し、その後、ヘッドコーチから打撃不振が理由と告げられたが、ロッテには戻らない覚悟で二軍へ向かった。オフには「予想どおり」自由契約になると、中日に移籍。ロッテで指導を受けたコーチが中日に在籍しており、監督の星野仙一に愛甲の退団を伝えていた。

「星野さんは試合に勝つとミーティングで『今日はありがとう』って言うんです。僕は20年で8人の監督に仕えましたけど、星野さんだけです、選手に『ありがとう』って言った監督。大抵は"上から目線"で『今日、お前らよくやったな』です。それでも選手はうれしいですけど、『今日はありがとう。お前らのおかげで勝てた』と言われたら明日も頑張ろうって思えますから。

 まあ、星野さんの場合、負けた時とのギャップは激しいですけどね。負けたらみんなボロクソに言われるし、ぶん殴られるヤツはいるし、物壊すし(笑)。だけど、そのあたりの人心掌握術はすごかった。きっと、根本さんもそうだったと思うんですよ」

 実際、根本も選手に「ありがとう」と言う監督だった。逆転サヨナラで負けた試合後のミーティングでさえ、「今日は私のミスで負けた。すまなかった。集まってくれてありがとう。以上!」と、ひと言だけ発して解散となった。

「選手に対するリスペクトがある監督なら『ありがとう』って言えると思う。しかも、星野さんはそこで信頼関係を構築するのが本当にうまい方だから、この人に付いていこうって強く思う選手が何人もいたんですね。当然、根本さんもそうだったでしょうし、幅のオヤジもプリンスでそうでした。ただ、オヤジの場合、部下との信頼関係が最終的に社内の派閥問題につながってしまって、副社長になったあとにそれが嫌で、プリンスを辞めたんですよね」

 退職後、幅は韓国でホテル事業を展開した。ビジネスパーソンとして成功した背景には、情があり、義理を重んじる姿勢があった。これも根本、星野との共通項だと愛甲は言う。

「やっぱり、野球界でも情は必要で、義理も大事だと思うんです。たしかに、ビジネスとしてきちんとしたこともやらなきゃいけないですが、今は儲けることが先行してしまったり、何でもアメリカの真似をして変にドライになったり。僕はそうじゃないんじゃないかなって思うし、根本さん、星野さん、たぶんオヤジも、今ここにいて話していたら同じことを言うと思います」

つづく

(=敬称略)