私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第11回
なぜ「史上最強」チームは崩壊したのか~稲本潤一(1)

 2006年ドイツW杯本大会の直前、日本代表はドイツとテストマッチを行なって2-2で引き分けた。

 アジアの小国にホームでドロー。ドイツにとっては、本大会に向けて危機感を募らせる結果になった。

 日本にとっては、本番に向けて「イケる」という手応えを得る試合になった。スタメンで出場した選手たちは、一様に満足気な表情を見せていた。

 だが一方で、微妙な感情を抱く選手もいた。

「たぶんW杯は『(メンバーは)これでいくんやろうな』って思った。ドイツといい試合をしたからね。試合に出ていたみんなは自信を持ったと思う。

 個人的には、もともとレギュラーが結構固まっていたとはいえ、やっぱりすべてが面白くはなかったですよ。ケガをしてポジションを失ったけど、ベンチに座って不満がない人はいないんでね……」

 ベンチで見ていた稲本潤一は、そんなふうに思っていた。

 稲本は、日本代表の指揮官にジーコ監督が就任した時、同監督から活躍を期待された選手の1人だった。ジーコ監督初采配となった親善試合のジャマイカ戦(2002年10月16日)では、稲本、小野伸二、中村俊輔、中田英寿の4人が中盤を構成。「黄金のカルテット」と称され、ファンを楽しませ、夢を与えた。

 その後も稲本は、ジーコジャパンの中心選手としての自覚を持ち、2006年ドイツW杯で活躍することを目標としてプレーし続けていった。

 ところが2004年6月、親善試合のイングランド戦で左足腓骨を骨折し、長期の戦線離脱を余儀なくされた。

 それ以降、稲本が担っていたポジションは福西崇史が穴を埋めた。そのまま、福西は優勝したアジアカップで活躍し、W杯アジア1次予選、最終予選でも存在感を示して、不動の地位を築いた。そして、最終予選のバーレーン戦から、中田英がボランチの位置に下がって、レギュラーの枠は完全に埋まってしまった。

 その結果、稲本はケガから復帰したあとも、ベンチに座っていることが多くなった。

「(ケガから復帰後)試合にはちょくちょく出させてもらったけど、(先発した)2004年12月の親善試合のドイツ戦で負けたりして(0-3)、(自分が出場した試合で)結果がついてこなかった。しかも、当時はフクさん(福西)のパフォーマンスがすごくよかったからね。

 ただ、復帰した自分のパフォーマンスが落ちた、とはぜんぜん思わへんかった。(試合で)誰を使うのかは監督が決めることやけど、当時は若くて尖っていたんで、試合に出られへんことに、完全に納得はしていなかった。自分(の感情)を押し殺してやっていた」

 ドイツW杯に挑む日本代表チームが大会直前の合宿に入っても、稲本はモヤモヤした気持ちを抱えたままだった。そして、ドイツ戦を経て、本番前最後のテストマッチ、マルタ戦を迎えた。

 当初、この試合はサブ組中心で戦う予定だったが、試合直前になって、レギュラー組が出場することになった。突然試合に出ることになったレギュラー組にとっても、最後のアピールの場を失ったサブ組にとっても、モチベーションの維持が難しい試合になった。

 試合は1-0で勝利したものの、ドイツ戦とは異なり、日本のパフォーマンスは低調なものだった。稲本も、後半24分に福西と交代して出場したが、とくに見せ場もなく、これといったアピールもできぬまま終えた。

「マルタ戦は(自分は試合に)出たっていうだけ。(チームとしては)引いた相手を崩せなくて、うまくいかなかったけど、個人的には、内容が悪かったことはそれほど気にならなかった。ドイツ戦での結果があったので、『本番になれば、何とかなる』と思っていた」

 内容はともかく、マルタ戦はチームにとって、少なからず意味があるものになった。この試合で先発した2トップ、大黒将志と玉田圭司以外は、レギュラーが確定したのだ。

「本番前、最後の試合なんで『(メンバーは)これで決まりやな』と思った。自分の気持ちは複雑やけど、まずはチームなんで、そこからは途中から試合に出たら何ができるか、考えていた。とにかく『初戦に勝ってくれよ』って思っていたね。初戦が一番大事やし、勝ち続けて戦う試合が増えれば、(自分が)試合に出るチャンスも増えてくると思っていたんで」

 2002年日韓共催W杯では、稲本は大いに活躍し、「ワンダーボーイ」として世界にも名を知らしめた。だがその4年後、まさかベンチでW杯を迎えるとは思ってもいなかった。稲本の心の中では、チームのことを考える一方で、抑え切れない別の感情が膨らみ始めていた。

 ドイツW杯本番、日本は初戦でオーストラリアと対戦。中村のゴールで先制し、いい流れで試合を進めつつあった。

 しかし後半、オーストラリアの指揮官、フース・ヒディンク監督が策を仕掛ける。得点力のあるティム・ケーヒルを投入。さらに、高さのあるジョシュア・ケネディ、ジョン・アロイージを入れて、パワープレーで日本を押し込んだ。

 それに対抗して、日本は小野を投入。攻撃を活性化し、ボール保持率を高めようと試みた。だが、オーストラリアの強力なパワープレーの前に、日本は自陣にくぎ付け状態となり、後半39分、ケーヒルに同点ゴールを奪われた。猛烈な暑さのなか、そこで緊張の糸も切れてしまったのか、日本は立て続けに失点を重ねて、1-3で初戦を落とした。



2006年ドイツW杯初戦、日本はオーストラリアに逆転負けを喫した

 ベンチで戦況を見つめていた稲本は色を失った。

「そりゃ、ショックですよ。今後の対戦相手を考えたら、絶対に勝たなあかん相手に、3点取られて逆転負けした。やられ方も衝撃的やった。

(試合を)見ていて、自分は正直、結果としては、交代が裏目に出たかなと思った。1-0で伸二を出したけど、それって(監督のメッセージとしては)『攻めて点を取りにいく』ということやと思うんです。でも、その選手交代の意図は、試合に出ている選手の考えとはズレがあった。また、ツネさん(宮本恒靖)ら後ろの選手と、ヒデさん(中田英)たち前の選手との間でも、意見の違いがあった。そこら辺が、初戦ではかみ合っていなかった」

 ジーコ監督が最も信頼していたのは、中田英であり、中村だった。海外でプレーするふたりは当然、日本でプレーする選手たちとは違ったサッカー観を持っていた。

 とりわけ中田英は、長く海外でプレーしてきた経験から、”国内組”と意見が食い違うこともあった。練習での姿勢はもちろん、プレスをかける位置など、戦術的なことについても、宮本や福西ら”国内組”と何度となく衝突した。

 無論、勝つためにどう戦うのかを真剣に考えるがゆえの意見交換である。それ自体は、決して悪いことではない。だが、生じた問題を、最後まで解決できぬままだった部分もあり、W杯に挑むにあたって、攻守のすべてがかみ合っていたわけではなかったのだ。

「前と後ろの(選手の)考えが合わないことというのは、普通にあることなんで、意見をぶつけて調整していけばいいんですよ。でも、それでも調整し切れないときがある。そのときは、監督がどうするのか、ジャッジせなあかん。

 ただ、ジーコは基本、選手に任せてくれていたんでね。そこが、この試合の最後に悪いほうに出てしまった」

 ジーコ監督は「選手が自主的に動いてこそサッカー」という考えから、選手の思いや考えを尊重していた。そのため、選手たちは練習中でも選手同士で議論し、自分たちで戦術を煮詰めてきた。

 また、ジーコ監督は日本代表監督に就任する前、監督経験がなかった。百戦錬磨のヒディンク監督とは違って、追い込まれた状況のなかで、戦術変更や選手交代によって、試合の流れを変えるとか、試合を決めにいくことができなかった。最も重要な場面で、監督経験の差が出てしまったのだ。

 チームは、敗戦のショックを受けて、通夜のような雰囲気になった。バスの中では、誰もが押し黙っていた。稲本は、これまでの日本代表で経験したことがない、重苦しさを感じていた。

「最悪の雰囲気やなぁ……」

 初戦の敗戦で、日本は早くも剣ヶ峰に立たされた。そして、翌日からチームはさらに追い込まれていくことになる。

(つづく)