札幌市内のホテル。次の日からのグランプリシリーズ、NHK杯の開幕を控え、壇上に並んだ選手たちが会見をしていた。マイクを持つと、一斉にストロボがたかれる。光が満ちて、宴の前の儀式のようだ。「4回転サルコウは少し練習してきたので。まだ(フ…
札幌市内のホテル。次の日からのグランプリシリーズ、NHK杯の開幕を控え、壇上に並んだ選手たちが会見をしていた。マイクを持つと、一斉にストロボがたかれる。光が満ちて、宴の前の儀式のようだ。
「4回転サルコウは少し練習してきたので。まだ(フリーのプログラムに)入れるか確定じゃないですけど。明日の練習とか、会場の温度や氷の状態、自分の感覚で確かめて決めたいと思います」
マイクを手にした紀平梨花は、具体的に質問される前に、自ら「4回転」について言及した。何か手応えがあったのか、リップサービスか。大会前日練習では、曲かけで失敗したものの、練習中に一度、見事に降りてみせた。
今季もグランプリファイナル出場を狙う紀平梨花
ロシアの女子選手たちを中心に巻き起こった「4回転時代」に、紀平はどう挑むのだろうか?
11月21日、真駒内アイスアリーナ。NHK杯の前日練習、紀平はリンクで少し滑ったあと、一番早くに白い上着を脱いだ。エメラルドの宝石を布にしつらえたような衣装があらわになった。黄金が散りばめられているようにも映る。颯爽と滑り出すと、一つに束ねた長い髪が揺れた。
「ショートもフリーも、ノーミスが目標。昨シーズンは、ともにノーミスはできなかったので、それをできるようにしたいです」
紀平は飄々と言ったが、恐ろしいほどの完璧性というのか。そこまで自分を追い込むと、普通は重圧を感じるものだが、緊張の皮膜に覆われることがない。不思議にズレた感覚を持っていて、自分を客観視できる底知れなさがある選手だ。
―アリーナ・ザギトワ、アリョーナ・コストルナヤという強敵との対戦については。
記者からの質問に、彼女は自分の言葉で淡々と答えている。
「えっと、ミスが許されない戦いになると思います。トリプルアクセルを3本決めて、レベルも取りこぼさず、今シーズンのベストスコアを、ショート、フリーで出せるように。(グランプリ)ファイナルに向けて、ノーミスで」
やはり、紀平は誰とも対峙していない。昨シーズンのファイナルの王者として、自分自身と向き合っているのだ。
<集中してる? 足は動いている?>
紀平はそう自分に問いかけるという。紀平が紀平という選手を動かしているような印象だろうか。そうすることで、自分を冷静にさせ、焦りや迷いに振り回させない。超然として滑れるのだ。
前日練習、フリーの使用曲「International Angel of Peace」を流した練習で、紀平は冒頭の4回転サルコウを失敗している。しかし練習中に再び挑み、これを成功させた。その完成度を高めているプロセスにある。
10月のジャパンオープン、4回転サルコウをお披露目する可能性もあった。ただ、その時は朝の練習の段階で、思うように着氷できず、断念した。それでも、4回転ジャンプを取り入れることに躊躇いはなく、精度を上げてきたのだ。
「(勝つために)4回転サルコウも必要になると思います」
紀平は、敢然として言っていた。4回転でほかのジャンプの精度が低くなる、そんなネガティブな発想はなかった。勝つために着々と準備をし、自分の可能性を広げてきた。
おっとりして愛らしい表情を見せるが、自分と真正面から向き合い、その殻を破れる強さがあるのだ。
「(10月の)スケートカナダでも、自分の中では仕上がった試合になってきた感覚があるので。それ以上に練習を積み重ねて、ショート、フリーどちらも曲に慣れてきたなと思います。(新しい)衣装は二人に作ってもらいました。今回はショート、フリーで2枚ずつ作ってもらって、その一つを選びました」
紀平はそう言って、小さく微笑んだ。
新たな挑戦は、プレッシャーになるのかもしれない。トリプルアクセルを大きな武器にする彼女が、それに集中するのは一つの戦い方だろう。ただ、一流のアスリートは「無理」と言われることに挑むことにモチベーションを感じ、真摯に競技に打ち込むことで、たとえ失敗しても、他の部分の技術を高められるとも言われる。周囲の期待や熱をシャフトに、高く舞い上がれるのだ。
紀平梨花は4回転サルコウをフリーで跳ぶのか。注目が集まる
4回転時代の到来を、紀平は少しも恐れていない。彼女にはすでに誰にも負けないトリプルアクセルがある。4回転を手にしたら、17歳の少女は無敵だ。
大会開幕を記念する撮影、紀平は前列に座って、澄ました顔を見せていた。隣の山下真瑚と言葉を交わし、自然な笑みも洩らす。しかし、それがリンクの上の延長線で演じているようにも見えなくなかった。その会見も含め、大会の前哨戦として挑んでいるとしたら−−。試合当日は心理面で万全だろう。
会場を出る紀平の表情は動かなかったが、黒い瞳の奥に勝気さが浮かんでいた。