PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第15回2020年7月の東京オリンピック開幕まであと8カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第15回

2020年7月の東京オリンピック開幕まであと8カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2004年アテネ五輪の競泳ニッポンは、男子平泳ぎ・北島康介の2冠獲得に引っ張られるように、競技6日目までにはほかの4種目でも銀1個、銅2個のメダルを立て続けに獲得した。そして最大の驚きだったのは、競技7日目の8月20日に、女子200m背泳ぎの中村礼子の銅メダル獲得に続き、女子800m自由形決勝で柴田亜衣が、五輪女子自由形で日本史上初となる金メダルを獲得したことだった。



アテネ五輪女子800m自由形で、金メダルを獲得した柴田亜衣

 高校時代まで無名だった柴田は、01年に鹿屋体育大学に進んでからジワジワと力をつけ、02年にはパンパシフィック・横浜大会に出場。03年の日本選手権では400m4位、800m3位、1500mで2位を獲得して世界選手権に初出場した。しかし、400mは14位で、800mは13位。1500mは12位に終わっていた。

 だが、04年になると、そこから驚速で進化する姿を見せた。4月の日本選手権では400mと800mは2位だったが、この年から設定された派遣標準記録を突破し、2種目で五輪代表に選ばれた。

 もともと、この種目で期待されていたのは山田沙知子だった。山田は高校3年生の00年にシドニー五輪に出場して800mで8位になり、その後も記録更新を続けて自由形の中・長距離で第一人者的存在に成長していた。世界ランキングは02年の400m2位、800m5位が最高記録だったが、04年4月の日本選手権800mでは8分23秒68の日本新をマーク。同年の世界ランキング1位となり、アテネに臨んでいたのだ。

 それでも大会前になると、「柴田がいい」との声が伝わってきた。直前のサルディーニャ合宿から調子が上がってきていた柴田は、競技2日目8月15日の400m自由形でその評判を証明する泳ぎをした。午前の予選は、4月の日本選手権で出した自己ベストを0秒08更新する4分07秒63で4位通過。決勝では4分07秒51とさらに自己記録を更新し、山田にひとつ先着する5位になったのだ。

 その時点では、800mで柴田のメダルを予想する者は極めて少なかった。彼女が日本選手権で出していた記録は8分27秒61。たしかに好記録ではあるが、アテネ五輪には8分23~24秒台の選手が多く出場していたからだ。

 19日午前の予選では、柴田は400mの疲れもあるなかで8分30秒08を記録して3位に入り、決勝進出を決めた。一方、山田は12位で落選。また、前年の世界選手権の400m、800m、1500mの3冠王者だったハンナ・ストックバウアー(ドイツ)が、400m予選敗退から調子を上げられないまま、こちらも14位で落選した。

 これで柴田にもメダルの可能性が見えてきた。とはいえ、さすがに金は厳しそうだった。強豪選手がひしめきあっていたのだ。

 400mで金メダルを獲得していたロール・マナドゥ(フランス)は、800mも予選1位通過で、その強さは本物。さらに4位通過のダイアナ・ムンツ(アメリカ)と5位通過のヤナ・ヘンケ(ドイツ)は、前年の世界選手権でそれぞれ2位と5位で、8分24秒台と23秒台を持っていた。予選を2位通過したレベッカ・クック(イギリス)も、昨年の世界選手権3位の実績を持っていた。

「私はどちらかと言うと大雑把な性格だから、神経質にもならないし、大会も大きくなればなるほど燃えてくるんです。だから五輪も今までの大会でいちばん楽しかったくらい。調子もよかったから『早く泳ぎたい』と言っていたんです」

 柴田が目標にしたのは表彰台だった。決勝前には「隣のレーンのマナドゥ選手は前半から行くだろうなと思っていたので、とりあえず腰か足が見える範囲でついて行って、最後は粘って追いつきたい」と話していた。

 その柴田が、決勝で奇跡を起こした。

 男子100m背泳ぎで銅メダルの森田智巳も、女子200m背泳の中村も決勝は3レーン。メダルが見えた状態でも「日本にとっては演技のいいレーン。私も3レーンだからいけるんじゃないかなと思っていた」という柴田。レースは予想どおりマナドゥが先行する展開になり、最初の200mはジャネット・エバンス(アメリカ)の世界記録(8分16秒22)を上回るペースで入った。柴田も2位をキープして追いかけたが、450m通過ではその差を2秒56まで広げられた。だが、その折り返しから、それまでの50m32秒台のラップタイムを31秒台に上げて、追いあげ始めた。

「600mくらいから自分がジワジワ追いついているのがわかったし、近づくにつれてだんだん力も湧いてくるようでした。最後はもう、必死に泳ぎました。750mのところで捕らえたと思ったけど、外国人選手はラスト100mや50mはスピードがあってすごく速い。でも、自分はあまりスピードがないので、とりあえずがむしゃらに手をまわして、自分なりに足を打って。ラスト50mは最後までヒヤヒヤしながら泳ぎました」

 600mでマナドゥを1秒54差まで追いつめた柴田は、700mからの50mでついに逆転。ラスト50mでマナドゥを突き放し、0秒42差を付けて8分24秒54の自己新で優勝した。

「自分でもすごくビックリしてるので、周りの人はもっとビックリしていると思います。とりあえずメダルを狙って泳いだけど、それが金だったのですごくうれしい。電光掲示板の名前の横に『1』という字が出た時は、『これ五輪だよね』みたいな感じで。田中先生にはレース前に、いつもの『焦らず、慌てず、あきらめず』と言われましたが、400mまでは『焦っちゃだめだ、慌てちゃダメだ』と頭の中で繰り返し、600mからは『あきらめるな、あきらめるな』と思っていました」

 指導する鹿屋体育大の田中孝夫コーチは「600mをターンした時に柴田のラップが目に見えて上がっていて、マナドゥとの差も縮まってきたので、『もしかしたら......』と。ここ数回の五輪では、800mは優勝タイムのレベルが低かったし、今年は800mも400mも絶対的な本命がいなかった。だから、自己ベストを更新すれば金もなんとかなるかな、と思いました」と話した。

「頭のいちばん奥では『優勝してくれればいいな』と思っていたけど、初出場だったので、いろんな意味で本人にもプレッシャーがかかっていたと思います。とりあえずは表彰台の3位以内、と話して、プレッシャーを和らげながら期待を高めてやってきました。『チャンスはある』と」

 柴田自身は勝因をこう分析した。

「日本選手権ではいいタイムが出たので、ずっとメダルを獲りたいと意識して練習をしてきました。それが強くなったいちばんの要因だと思います。大会へ向けてすごく上り調子だったので、必ずベストが出ると確信していました。自分を信じてやってきたことがよかったし、田中先生の練習をやれば必ず速くなる、と思って練習をしてきました」

 柴田が金メダルという成果を得たのは、ピークをうまく合わせた田中コーチの手腕も大きい。大会前の高地合宿では、ほかの選手たちは7月24日に下山したが、田中コーチは800mに照準を合わせるために柴田の下山を4日間伸ばして28日にした。それが功を奏しただけでなく、400mで予選と決勝を泳げたことで、本命の800mでも緊張せずに臨めた。

「日本選手権で一度も勝たずに五輪チャンピオンだけど、意外と度胸は据わっていますね。引っ込み思案で努力家だけど、気持ちは落ち着いていて度胸がいい。そういうタイプですね」

 田中は、柴田の性格をそう評する。

「ただ、今回は北島くんや山田さんのほうにマスコミが集中していたので、その点では柴田は彼らの陰に隠れて、あまり期待もされていなかったのでプレッシャーを感じずにいられた。それがよかったと思います。バルセロナ五輪で優勝した岩崎恭子さんのような状態でした。彼女も日本選手権2位で代表に選ばれたから、過度のプレッシャーもなくいいレースをすることができた。柴田も、それに近い感覚だったと思います」

 強くなりたい、というひたむきな思いと努力。そして、田中コーチのピーキング戦略。さらに、無心に泳げる状況も揃っていたことが、予想外の金メダルを生み出した。

 柴田はその後、05年の世界選手権では、400mで4分06秒74の日本新を記録して2位。800mでは3位に入った。07年世界選手権の400mでも、4分05秒19の日本新で3位になり、1500mも15分58秒55の日本新で3位。08年北京五輪では400mと800mで2種目とも予選敗退だったが、金メダリストとして結果を出し続けた柴田亜衣は、2000年代の日本女子自由形を牽引した存在だった。