金田正一氏の逝去から1カ月が過ぎた。金田氏の数え切れないほどの伝説をいくつも目にしたが、あらためて400勝という途…

 金田正一氏の逝去から1カ月が過ぎた。金田氏の数え切れないほどの伝説をいくつも目にしたが、あらためて400勝という途方もない数字に驚くばかりだ。現在の野球ファンにとっては、完全に歴史上の人物といった感覚なのだろう。

 そんな金田氏がロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の監督を務めたのは、1973年から78年までの6年と、1990年から91年の2年の計8年間。突然の訃報にふれ、監督としての金田氏を思い出した方も多くいるに違いない。かつて南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の主砲として活躍した門田博光もそのひとりだ。

「亡くなったことを知ったのは、(10月)7日の朝。テレビを見ていたら突然(ニュースが)流れてきて、『えっ……』って止まってしもうた。名球会の上のメンバーのなかでも一番元気やと思うとったし、もう何年も会ってなかったけど、たまにテレビで見ても変わっていなかったのでね。僕らの時代のスーパーマンやから、まさかその人がと……頭のなかがクエスチョンになった」

 門田の言う「名球会の上のメンバー」とは、王貞治氏、長嶋茂雄氏らを指していたが、たしかに年齢的には最年長の金田氏は、もっとも病の気配を感じさせない人だった。

 門田は金田氏の現役引退の翌年にプロ入りしたため、選手として直接対戦したことはないが、監督と選手という立場で戦うことになる。

「僕がプロ入りして少し経ってから金田さんがロッテに監督として来たんですよ。それは大ニュースでしたね。金田さんは現役の最後は”Gマーク(巨人)”をつけて400勝を達成されて。そんな野球界のトップに立った人がロッテの監督になるって言うんやからね。『ほんまに来るんか?』って、みんな思っていました。

 僕らが若かった頃のパ・リーグは、いろんな意味でどん底やった。球場はいつもガラガラで、待遇面でもプロ野球とは思えないものがあったし、注目度も低かった。パ・リーグのトリプルクラウン(三冠王)とセ・リーグのワンキング(一冠)が並べて語られるような時代やったから。すべてがGマーク中心に回っていた。選手もみんなGマークにしがみついていたなか、金田さんはロッテに来た。重光武雄オーナーから『ロッテを盛り上げてほしい、パ・リーグを盛り上げてほしい』と熱心な誘いがあったからやと思うけど、金田さんの登場でパ・リーグに火がついたところがあった」

 当時のパ・リーグを振り返ると、1972年オフに西鉄ライオンズが太平洋クラブライオンズに、1973年には東映フライヤーズが日拓ホームフライヤーズとなった激動の時代。球団経営の厳しさは想像に難くないが、そこへ大きな注目を集めて登場したのが金田氏だった。

「金田さんが来て、暗く重かったパ・リーグの球場が、どこもパッときれいな花が咲いたみたいに明るくなった。試合になったら三塁コーチャーに立って、スタンドのファンにもモノを言いながら巻き込んで……『球場がワシの舞台や!』と言わんばかりに、賑やかにやっていましたからね。たまに元気のない時はこっちのベンチから『どないしたんやー、二日酔いか?』ってヤジを飛ばしてね。そしたら『なに言うとるんや!』って、そこからいつも以上に元気になる。今はパ・リーグもお客さんがいっぱい入って活気があるけど、ここにつながる流れをつくったのは金田さんやないかな」

 当時の南海は、野村克也氏がプレーイングマネージャーとしてチームを率いていた。「パフォーマンス系は好まなかったのでは?」と聞くと、門田は「いやいや」と否定した。

「とにかく当時は、パ・リーグでやっている者はなんとかリーグを盛り上げたい、お客さんに来てほしいと思ってやっていましたからね。ノムさん(野村克也氏)も金田さんどうこうというのは、一切なかったですよ」

 当時のロッテは本拠地を模索し、後楽園、宮城、川崎、静岡、神宮などを転々とする球団だった。そのなかで金田氏が指揮を執り、2年目の1974年。前期優勝の阪急(現・オリックス)をプレーオフで下し、日本シリーズでは中日を4勝2敗で破り、球団として24年ぶり2度目の日本一へと導いた。この年のセ・リーグは、巨人がV10をかけてシーズン終盤まで中日と競っていたが、最後に力尽きた。

「金田さんにしてみたら10連覇を目指す巨人と戦って、そこに勝って日本一というのが最高のストーリーやったでしょうけどね」

 最高のストーリーは実現できなかったが、いずれにしても見事な日本一だった。はたして、金田監督になり、ロッテの選手たちの何が変わったのだろうか。すると、門田が真っ先に挙げたのが食事だった。

「とにかく毎日の食事が真剣勝負で、『しっかり食べろ』『いいものを食べろ』と。体づくりの基本となる食事には、とにかくうるさかったと聞きました。金田さんは現役時代、遠征に食材を調達して、自分の部屋で鍋をしていたと聞いたことがあるように、徹底して食事にこだわった人。だから監督になっても、まず食事改革から始めたんでしょう。しっかり食べて、しっかり寝て、しっかり鍛える。大事だとはわかっていても、そこまでやる人はいなかった時代。それを球団もしっかりバックアップしたんでしょうね」

 グラウンドでは、キャンプからとにかく走り、シーズンになると試合前にもかかわらず、選手たちが熱心にストレッチをやる姿が頭に残っていると、門田は言う。

「とにかくロッテの選手は柔軟体操をやっていました。これも金田さんの哲学なんでしょうけど、故障しない体づくりですよね。そうやなかったら400勝はできないだろうし、20年以上もプロの世界で戦えない。我々の頃もそうだったけど、当時は体について細かく教えてくれる人はいないから、みんな自分で会得した技術やトレーニング方法が理論になっていた。1台の自動車をひとりで組み立てていたようなもの。でも今は、トレーニングはこの人、バッティングはこの人と、いろんな人の手を借りて組み立てるから、調子を落としたり、故障したりした時に自分の体がどうなっているのかわからない。金田さんの理論は、すべて自分がやって結果を出したなかで確立されていった理論なんです」

 続けて、金田氏の性格面の話題になった。

「現役時代も引退後も、自分のペースでとことんやる人に映っていると思うけど、名球会でハワイにいった時なんかは、みんなに気を遣って話しかけてくれてね。僕も初めてハワイ旅行に参加した時、『カド、どうやこの料理はいけるか?』って話かけてくれて、恐縮しましたよ。それから少しずつ話せるようになって、『オヤジ』と呼ばせてもらうようになったんですけど、僕のイメージは常にウェルカムの雰囲気をつくって、場を明るくする人でしたね」

 その一方で、気の短さを伝えるエピソードも多く語られている。訃報が流れた際、張本勲氏が「一番ケンカしたのは私でしょう」とコメントを出していたが、門田曰く「そのとおりでしょう」ということだ。

「これも名球会のハワイの時ですけど、ふたりでやり合ったことがあったんですよ。みんなで話し合いをしている時に張本さんが突っかかっていったら、金田さんが怒って……それをナンバーワン(王貞治氏)やナンバースリー(長嶋茂雄氏)が止めに入ったけど、収まらん。金田さんも張本さんもバリバリ元気な頃やから、そら迫力ありましたよ(笑)」

 そして門田は「それにしても400勝でしょう」とつぶやき、話題は投手・金田正一の話になった。この先、破られることはもちろん、この記録に迫る者も現れないアンタッチャブルレコードとして輝き続けるに違いない。その大きな理由として、門田は次のように語った。

「なぜ追いつき、追い越すのが無理なのか。もちろん、とんでもない数字やけど、ひと言で言うたら、簡単に福沢諭吉(お金)が手に入る時代になってしまったから。そこまで数字を求めて技術を追求せんでも、十分な給料がもらえるでしょ。僕らの時代、3割、20本塁打、80打点でも『外野手はそれぐらい当たり前や』って言われて、年俸は上げてもらえなかった。だからこっちも、40本にこだわりをもって、それをクリアしたら『次は60本や!』ってチャレンジし続けた。

 金田さんも最初はGマークの選手じゃない(国鉄スワローズ)なか、途轍もない数字を残して、球団にも世間にも認めさせてやろうとトライを続けた結果の400勝やったはず。もし今、400勝を目指してスタートした選手がおったとしても、すぐに『なんでそこまで数字にこだわらないとあかんねん』と逃げてしまうはず。数字に挑むというのは本当に辛い作業ですから。今はそこまで突き抜けた数字を残さなくても、福沢諭吉がようけ入ってくる時代。これからこの先、400勝投手が現れない一番の理由とちゃうかな」

 そして最後に、門田は400勝投手が生まれた背景を口にした。

「金田さんや僕らがやっていた時代というのは、野球選手だけじゃなく、サラリーマンでも、今よりははるかに夢があった。誰でも本気になれば天下獲りができましたから。でも、今はそうじゃないでしょ。どこもきちっと当てはめるようになって、ちょっとやそっとじゃ突き抜けられない。結果を出せば福沢諭吉は入るけど、天下獲りはできん時代になったということ。だから”400勝投手・金田正一”は、あの時代のなかでこそ生まれたスーパーマンやったということでしょう」

 アマチュア時代、ホームラン0本からプロ入り後、王貞治氏、野村克也氏に次ぐ歴代3位の567本塁打を放った門田もまた、あの時代だったからこそ球史に残る名プレーヤーになったのかもしれない。いずれにしても、天下獲りを夢見ることに困らなかった時代が、うらやましくも思えてきた。