新時代を切り開こうとする怪物・井上尚弥の前に、5階級制覇の”レジェンド”ノニト・ドネアが立ちはだかった。 11月7日、ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)バンタム級の決勝が行なわれたさいたまスー…

 新時代を切り開こうとする怪物・井上尚弥の前に、5階級制覇の”レジェンド”ノニト・ドネアが立ちはだかった。

 11月7日、ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)バンタム級の決勝が行なわれたさいたまスーパーアリーナは、井上の強さを目撃しようと2万人を超えるファンが詰めかけた。そこで彼らが目にしたのは、勇敢に戦うレジェンドと、これまで見たことがないほど苦戦する井上尚弥の姿だった。「井上優位」という大方の予想に反し、どちらに勝利が転がってもおかしくないスリリングな打ち合いが繰り広げられたのである。それも、12ラウンドに渡って。



試合後、抱き合って健闘を称え合うドネアと井上

 井上は、WBSS決勝に辿り着くまでに「圧倒的な強さ」を見せつけてきた。

 2018年にバンタム級に階級を上げ、同年5月、10年間無敗を誇っていた当時WBA同級王者のジェイミー・マクドネル(英国)をわずか112秒でキャンバスに転がし、バンタム級が適正階級であることを示す。その約5カ月後のWBSS1回戦では、元WBA同級スーパー王者のファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)を70秒でKO勝ちを収め、世界中のボクシングファンに大きな衝撃を与えた。

 そして、今年5月に行なわれたWBSS準決勝で、IBF同級王者のエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)を259秒で戦意喪失に追い込んだ。この3試合で井上が見せた「打たさずに倒す」という理想的なボクシングは、多くのファンに「井上に敵はいない」という幻想を抱かせるには十分すぎるものだった。

 一方のドネアは、井上が憧れてきた男であり、WBSS開催前から「対戦したい」と熱望した世界的なスターだ。ドネアはそれまで戦ってきたフェザー級からふたつも階級を落とし、7年ぶりにバンタム級に戻してWBSSに参戦してきた。

 1回戦で、優勝候補のひとりだったWBA同級スーパー王者のライアン・バーネット(英国)を、アクシデントによるTKO勝利という幸運な形で退ける。続く準決勝では、欠場したWBO世界同級王者のゾラニ・テテ(南アフリカ)の代役であるステフォン・ヤング(米国)を、代名詞の左フック一発で仕留めて決勝に駒を進めてきた。

 数々のビッグマッチを経験してきたドネアは、45戦ものキャリア、運をも味方につける神秘性、そして「閃光」と称される強烈な左フックによって、井上を未体験ゾーンに誘う可能性を秘めていたのは間違いない。だが、ドネアはすでにピークを過ぎたレジェンドボクサーだと思われていた。実際のところ、ここ2試合を見る限り、ドネアに全盛期ほどのスピードは感じられなかった。ゆえに、多くの専門家は「井上のKOによる早期決着」を予想していた。

 日本には井上フィーバーが巻き起こった。WBSS決勝戦の前売り券2万枚は完売。国内で開催されるボクシング興行で、2万人を超える観衆を集めたのは、2009年に行なわれた内藤大助vs亀田興毅戦以来、実に10年ぶりのこと。しかも、因縁めいた日本人対決とは異なり、井上の強さに注目が集まったのだから、この2万人という数字は、それ以上の価値がある。

「井上尚弥の圧倒的な強さを見たい」

 そんな期待と興奮が入り乱れた異様な空気の中、バンタム級の最強王者決定戦は始まった。

 1ラウンドの立ち上がりは、ジャブを出しながら互いに距離やタイミングを測りあう予想どおりの展開に。井上は、やや硬さが見られるものの、まずまずの立ち上がりのように見えた。そして1分を過ぎたあたりから試合が動きだす。ふたりが同時に左フックを放つも、一瞬速く井上の拳がドネアの顔面を捉える。それでも構わず前に出てくるドネアに対して、井上はフットワークを使いながら、時折、回転の速いコンビネーションを繰り出してプレッシャーを跳ね返した。このまま順調にいけば、早期決着も十分にある展開のように思えた。

 続く第2ラウンドに、試合はさらに大きく動く。井上が右ストレートの直後に放った左フックがドネアのこめかみを捉えると、たまらずドネアがよろけた。それを見逃さずに攻める井上が、左ショートフックを出したところに合わせるように、ドネアの強烈な左フックが井上の顔面にクリーンヒットした。

 井上の顔が大きく歪む。この一撃で井上は、右目まぶたから出血。試合後のインタビューによれば、この時から「目がぼやけて、ドネアがふたりに見えていた」という。有効打によるカットのため、レフリーが続行不能と判断すれば、TKO負けになってしまう。以降、井上は傷口を広げないために、ガードを高く保ちながら試合を進めざるを得なくなってしまったのだ。

 しかし第5ラウンド終盤、ドネアのジャブの打ち終わりに合わせた、井上のノーモーションの右ストレートが、ドネアの顎を撃ち抜いた。ドネアの腰がガクッと落ち、ヨロヨロと後退する。明らかに効いていた。井上は距離を一気に詰め、左右のパンチを強振してドネアに襲いかかる。あわやKO決着というシーンだったが、無情にもラウンド終了のゴングに阻まれた。「あと1分あれば……」と思ったのは筆者だけではないだろう。

 井上が試合を決めにいくかと思われたが、第6ラウンド以降はドネアの左フックを警戒してか、深追いはしない。お互いにパンチが当たるギリギリの距離感での高度な技術戦に、ファンが魅了されていた第9ラウンド、今度は井上に試練が訪れる。ドネアの強烈な右ストレートが、井上の顎にクリーンヒットしたのだ。井上の足が揃い、膝が落ちかける。すぐさまクリンチで逃れようとする井上。これまで見せたことのない姿だった。

 それを強引に振りほどき、攻撃に出ようとするドネア。まだ残り時間は2分近くあった。おそらく井上は、これまでのボクシングキャリアの中で、最大の試練を迎えていたはずだ。だが、ガードをあげながら、ドネアに、「来い」と両手でジェスチャーを出す。ドネアもまた、井上のカウンターを警戒して、攻め切ることができず、そのままラウンドは終了した。

 続く第10ラウンド。井上は劣勢を受け入れて終わる男ではなかった。ラウンド終盤に井上の右のショートフックが連続してドネアの顔面を捉える。ドネアの頭が大きく揺れ、動きが鈍ってきたようにも見えた。何かが起こる気配を感じた観客が大いに沸き出し、11ラウンドは前ラウンド終盤の流れのままに、開始から井上が攻勢に出た。

 面白いように井上のパンチが当たり始め、ナオヤコールが起こる中、井上の内臓をえぐりとるような左フックのボディが炸裂する。苦悶の表情を浮かべたドネアは背を向け、ついに両膝をついてダウン。観客は総立ちで、拳を天に向かって突き上げた。レフリーのカウントがゆっくり進み、「これで終わった」と思ったが、百戦錬磨のドネアは、テンカウントギリギリで立ち上がった。一気に勝負を決めにかかる井上。瀕死のドネアも、あわやというカウンターの左フックを振るう。ドネアの強い意思を感じたラウンドだった。

 そして迎えた最終12ラウンド。会場全体はこの日一番の”ナオヤコール”に包み込まれた。井上が前に出れば、劣勢のドネアも最後の力を振り絞って力強いパンチを繰り出す。意地と意地、高い技術と技術の応酬に誰もが息を飲む。最後は両者が体をぶつけ合い、抱き合うようにしてラウンド終了のゴングを聞いた。

 試合前に、「井上の壁になる」と意気込んだドネアに対し、「世代交代を成し遂げたい」と決意をみせていた井上。結果は3-0の判定で井上尚弥の勝利となったが、ふたりの思いが伝わってくる、強い決意に満ちた12ラウンドだった。勝敗を超えた戦いは、2万人の視線を釘づけにし、世界中の視聴者の心をがっちり掴んだのではないか。

 井上は試合後、「めちゃくちゃ強かったです」とドネアの実力をあらためて評価。一方のドネアは、「彼が真の王者であることを証明した試合」と、これから世界の中量級は井上を中心に回っていくことを予想した。

 世界的なスターであるドネアの壁をなんとか乗り越え、”バンタム級最強”の称号を手にした井上。今後、井上が階級を上げていくなら、今回のような苦しい戦いは必ず訪れる。それを乗り越える力を、レジェンドから授かった一戦だったと言えるかもしれない。

 試合後には、本格的にアメリカ進出に向けて動き出すことが発表された。トップランク社との複数年契約により、2020年の3月と夏にアメリカで試合を行なったあと、日本で凱旋試合を行なうプランがあることが判明した。新しい時代の扉をこじ開けた井上の目には、この先、どのような景色が広がるのだろうか。