PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第14回2020年7月の東京オリンピック開幕まであと8カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を…
PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第14回
2020年7月の東京オリンピック開幕まであと8カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。
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「チョー気持ちいい!」
2004年アテネ五輪の100m平泳ぎで優勝した直後に、北島康介がテレビカメラの前で口にした言葉だ。そこまでの苦しく辛い戦いがあったからこそ、あの明るさを持った言葉が、口を突いて飛び出したのだった。そこには、彼の解放された気持ちが素直に表われていた。だからこそ、そのあとのミックスゾーンでの取材で、北島は涙をボロボロと流したのだ。
アテネ五輪100m平泳ぎ決勝で優勝した北島康介
北島は、高校3年の00年シドニー大会で五輪初出場を果たし、100mで4位に入った。その後、平井伯昌コーチの「次は金メダルを狙う」という言葉と共に、04年アテネ五輪へ向けて順調な道を歩み始めた。翌01年の世界選手権福岡大会では、水中で大きく伸びる泳ぎで200mの銅メダルを獲得している。
「泳ぎを洗練させて、次は世界記録を」という目標を持った02年は、8月のパンパシフィック選手権前にヒジを痛めるアクシデント。それでも下半身を強化したことが幸いし、10月のアジア大会200mでは、マイク・バローマン(アメリカ)が10年間保持していた世界記録を更新。2分10秒の壁を初めて破る2分09秒97を出して、目標をクリアした。
さらに03年の世界選手権では、「アジアではなく世界の舞台で、ライバルたちに康介の存在感を示してプレッシャーを与えておきたい」という平井コーチの思惑どおり、100mで優勝。ロマン・スロードノフ(ロシア)が01年に作った59秒94を上回る、59秒78の世界記録を出した。200mでも、6月にディミトリー・コモルニコフ(ロシア)に塗り替えられた世界記録を更新し返す2分09秒42で優勝。2冠を獲得した。
こうして、想定していた構想をすべて成し遂げて臨んだ04年アテネ五輪のシーズンだが、苦しい道のりも待っていた。世界標準の戦いをするため、1月に短水路のW杯を転戦したが泳ぎのフォームを崩し、ヒジに痛みも出てしまったのだ。
その不安は、代表選考会だった4月の日本選手権で、50mを含めた4年連続3冠を獲得したことで吹き払ったかに見えた。だが、5月のヨーロッパ高地合宿を経て出場したヨーロッパグランプリでは、またしても泳ぎが崩れてしまった。ローマ大会の200mでは、長水路で01年世界選手権以来の敗戦を喫した。
さらに苦難が襲いかかる。帰国後には左ヒザにガングリオンができてしまい、それを治療で潰したために、高地合宿に出発する6月末の時点で平泳ぎができない状態になってしまったのだ。
そして、調子が上がってこないままだったスペインのグラナダ合宿中、北島と平井の下に衝撃的なニュースが届いた。7月の全米選手権100mで、ブレンダン・ハンセンが59秒30で世界記録を更新。その3日後には、200mでも2分09秒04の世界記録を出した。
その知らせを聞いて気合いが入った北島は、徐々に調子を上げていったが、本来の調子にはなかなか戻らない。本当に戦えるようになったと平井コーチが判断したのは、五輪本番の10日前。イタリア・サルディーニャ島での最後の調整合宿だった。
「サルディーニャに入ってからの康介は、日に日に自信に満ちた顔になっていった」と平井は話す。北島は「これで完璧だ、と思った。気持ちも盛り上がってきました。ただ、『やれるぞ!』と思ったというより、『これで行くぞ!』という開き直った気持ちのほうが強かった。ハンセンのことは常に考えていたけど、勝ち負けよりも、やることはすべてやったという感じでした」と振り返る。
とはいえ、危惧すべきこともあった。もしハンセンが全米で出した59秒30と同レベルのタイムを本番で出してきたときに、はたして北島が対抗できるのか、ということだ。そのために平井がとったのは、最初の予選でハンセンにプレッシャーを与える作戦だった。
100m平泳ぎ予選は、競泳初日の8月14日の昼に行なわれた。北島は滑らかな力強い泳ぎで、五輪新の1分00秒03を出した。それまでの状況を聞いていただけに、安堵する気持ちが強かった。一方、ハンセンは1分00秒25だった。
北島はのちに「練習で調子がよくても、本当の体調は予選を泳いでみないとわからない」と話している。
「練習で自信があってもレースで速く泳げなかったら、そんな自信は一瞬で吹き飛んでしまう。だから予選の前は緊張していたけど、タイムを見て正直ほっとしたというか、初めて『戦える』と思った。もしも、予選でハンセンが59秒台を出していたら決勝では勝てなかったかもしれない。でも、結果的に僕は余裕を持てた。今思えば、僕があそこで彼にプレッシャーをかけていたのかもしれない」
夜の準決勝はハンセンが1分00秒01とタイムをあげたのに対し、北島は1分00秒27とタイムを落とした。だが、平井は楽観視していた。
「康介は後半にミスをしてタイムを落としたが、ハンセンの前半の泳ぎにちょっと焦りがあった。だから、穴が見えたと思ってむしろ喜んでいました」
15日の決勝を前に、平井は北島に「スタートしてからの25mとターンしてからの15mは、絶対にこっちのほうが速い。だから、あわてないで行こう」と話した。予選と準決勝のレースを分析すると、ターンしてから15mの泳ぎは北島のほうが0秒3~4秒は速い、というデータが出ていたからだ。もし、ハンセンが前半の50mを全米選手権と同じ27秒台で入ったとしても、北島は75m付近で並べると考え、ラスト25mの泳ぎを入念にチェックした。
午後8時すぎの決勝。飛び込んだ北島がハンセンを少しリードして浮き上がり、そのまま25mを通過したとき、平井は心の中で「勝った」と思った。ハンセンの泳ぎは明らかに硬く、50mの折り返しはトップながらも全米選手権の27秒台にはほど遠い28秒22。北島との差は0秒04しかなかった。
ターンして浮き上がると、北島が頭ひとつリードした状態。「50mをターンして浮き上がったときには、前にハンセンがいなかったので勝ったと思い、そこからは無心に泳いだ」と振り返る北島は、ゴールのタッチもピタリと合わせて1分00秒08でゴール。ハンセンとの差を0秒17にしていた。
平井は「準決勝でタイムは落ちたが、振り返ってみれば、康介が予選でしっかり泳いだことが、ハンセンにボディブローのように効いたのだと思います。決勝だけではなく、3本のレースすべてが勝負だと思って臨んだのがよかった」と話した。
北島は「今回のハンセンの結果を見て思ったのは、彼は世界記録を出してからの1カ月間は本当に苦しかったんじゃないかな、ということです。これが世界選手権やパンパシだったら大丈夫だったけど、五輪という特別な舞台だったので、そのプレッシャーに耐えられなかったのかもしれない」と述べた。
最初の勝負を制して自信を取り戻した北島を、200mで阻む者はいなかった。18日の決勝では、スタート後の浮き上がりから前に出てトップで50mを折り返すと、そのままトップを維持して2分09秒44でゴールし、2冠獲得を果たした。後半に追い上げて2位になったダニエル・ギュルタ(ハンガリー)に1秒36の大差をつける圧勝だった。150mまで北島に食らいついていたハンセンは、最後に差されて2分10秒87で3位に止まった。
すべての競技が終わったあと、北島はこう話した。
「人前で涙を流したのは初めてだったけど、やはりプレッシャーはあったし、あれが五輪という緊張感から解き放たれた瞬間だったと思います。体調が悪かったり調子の波が激しかったのは、自分自身がいちばんわかっていたし、日本選手権前からメンタル面で照準が合わなかったりして、誤差みたいなものも生じていました。でも、それを気にしたら自分が不安でしようがなくなると思ったし、そうなってしまう自分が怖かった。
五輪という特別な大会だからこそ、弱音のような言葉を一度でも口から出してしまったら、僕はそこで負けるんじゃないかと思っていたし......。強がっていた部分も多少あるけど、必ず五輪で金を取る、という強い想いだけを、心の中で描くようにしていました」
世界の平泳ぎの新たな歴史を切り開いた北島と平井。彼らはここから先もまた、新たな歴史を築くために歩みを止めることなく、次の北京五輪を目指したのだった。