今年の早大を支えていたのは、紛れもなくこの二人だ。飯島匠太郎主務(スポ4=千葉・市川)と大舘侑生副務(教4=埼玉・早大本庄)。互いに助け合いながら、常に野球部のことを考え、身を粉にして尽力してきた。3年前、選手生活に終止符を打ち選んだ『マ…

 今年の早大を支えていたのは、紛れもなくこの二人だ。飯島匠太郎主務(スポ4=千葉・市川)と大舘侑生副務(教4=埼玉・早大本庄)。互いに助け合いながら、常に野球部のことを考え、身を粉にして尽力してきた。3年前、選手生活に終止符を打ち選んだ『マネジャー』としての大学野球人生。その裏にはどのような苦悩があり、そして喜びがあったのだろうか。最後の早慶戦を目前に控えたこの日、二人の胸中に迫った。

※この取材は11月3日(慶大2回戦前)に行われたものです。

敗者から見た『勝てるチーム』


ベンチで声を出す飯島

――マネジャーになるという選択をした時の心境は

飯島 僕は自分から立候補というかたちで。もちろん誰かがやらなければいけないんですけど、最初のミーティングの段階で手を挙げました。チームの勝利に貢献できるようにやってやろうと、積極的な気持ちでしたね。(選手生活に終止符を打つことには)悔いはなかったですね。大学1年生の時にやり切れたと思えたので、新たな世界を見ようと、そう思いましたね。

大舘 僕はけがとかもあって、そんな中で「チームの力になるためには」と考えた時が、マネジャーを決めるタイミングと重なったということもあったので、自分がチームのために貢献できるのはマネジャーになるしかないな、と思って。自分が競技を続けるよりもマネジャーになった方が、自分のためにもチームのためにもなると思ったので、決断しました。なので自分も積極的でしたね。チームを支えたいという思いが強かったので。

――「自分のために」というのは

大舘 やっぱり選手でいるよりかは、(マネジャーの方が)大人の方と接する機会も多いですし、それこそ引っ張っていかなければいけない立場、受け身というよりかは能動的にやっていかなければいけない部分があるので。そういった経験が自分にはあまりなかったです。マネジャーになることで、そういったところで成長できるのかなと思いました。

――この四年間で「一番苦しかったこと」は何ですか

大舘 やっぱり最下位になった時(2017年秋)ですかね。自分たちはまだ下級生の立場でした。その時に冷たい言葉とかを(寮のマネジャー室)の電話などで直に受け取る機会が多かったので。辛かったですね。早稲田としては(チームが)頑張っているのをマネジャーとして分かっているのに、ファンの方やOBの方からは厳しいことを言われたので。その食い違いには苦労しましたね。

――飯島主務は「この秋開幕3連敗した時が最も辛かった。夏、どの大学よりも練習していたと胸を張って言えるのに、結果が出ないと評価されない世間の厳しさを痛感した」と事前アンケートで伺いました

飯島 (夏季オープン戦が終わった後に)今までは全体練習の時間がありませんでした。(今夏はやるようになって)それを最後までだらけずにやれたというのは、選手と感じていましたし。それでも少し気が抜けてしまう部分もあったんですけれども、学生コーチとかが中心になって「だらけなように、だらけないように」と引き締めて何とかモチベーションを保ってやろうとしている姿勢が印象的でした。新人監督(鈴木太郎、スポ4=静岡)とかが苦しんでいる姿を見ていましたし、選手も長時間の練習にしっかり付いていこうと頑張っていましたし。徳武さん(定祐コーチ、昭36商卒=東京・早実)の熱い指導もあって、加藤(雅樹主将、社4=東京・早実)や檜村(篤史副将、スポ4=千葉・木更津総合)とかもその指導を受けて頑張っていたのを見ていたので。

大舘 それこそ夏休み期間でしたけど、監督(小宮山悟、平2教卒=千葉・芝浦工大柏)の帰る時間もめちゃくちゃ遅くて。監督も毎日夜10時くらいまで練習に付き合われていましたし、遅くまで(練習)やっているんだなあと思って見ていましたね。

――逆にこの四年間で一番良かった思い出はありますか

飯島 一番泣いたというか感動したのは、自分たちでやってきたことがあまりうまく結果に出ない中で、やっと報われたと感じた明治の2回戦ですね。あそこで「やっぱりやってて良かったな」と思いました。3連敗した時は、自分のやってきたことが全て否定されたような気持ちだったので。そんな中、2回戦で加藤が泥臭く打ってガッツポーズして…。それが本当にうれしくて、思い出すだけでもうあれですね(笑)。いい思い出というか、ようやく報われたなと。慶応戦でこれからどうなるか分からないですけど、あれで最低限(報われた)というか。最後(早慶戦)頑張ってほしいですね。

大舘 (しばらく悩んだ末に)きのうのバッティング練習で、4年生に藤井祥(人=岐阜・関)っていうやつがいるんですけど、彼がめっちゃ声出して盛り上げていて。そこから4年生が早慶戦に懸ける思いというのが伝わってきました。それこそ、きのうの夜とかも「バッティング練習でもっと声出そう」と団結している姿を見て…。自分たちの代って個性派ぞろいで、あまりまとまるのが得意ではないんですけど(笑)。それでも最後に一つになろうとしているんだな、というのが伝わってきて。きょうの試合に期待できそうだなと思いましたね。

――では、この四年間で「これだけは学んだぞ」というものはありますか

飯島 きのうの夜とか結構それを考えていました。高校時代の話に戻るんですけど、高校の時から結構(試合で)負け続けてきたというのがあって。大学四年間でも優勝できませんでしたし。そういう意味では、「敗者から見た『勝てるチーム』ってどんなだろう」というのは何となくですけど、分かったのかなと思います。

――今年でいう明大や慶大でしょうか

飯島 明治はちょっと違くて。慶応が当てはまるんですけど、監督の考えていることがしっかりと(学生に)伝わっているというか。監督が分かっていても他の選手に伝わっていないということもある中で、しっかり選手に浸透しているというか。(慶大)マネジャーの鈴村(知弘、4年)も意識が高いですし、劣等感を感じる部分もあるんですけど、(この経験を)次に生かせるというか、次は絶対勝ってやるという気持ちですね。

大舘 たくさんあるけどな…。でも、マネジャーの仕事って妥協しようと思えばいくらでも妥協できるんですよ。それこそ何でも言えて、基本的にやるかやらないかの二択の連続なんですけど、そういうときに妥協する方を選んでしまうと、どんどん自分が駄目になっちゃうなと思って。早稲田の野球部であるためには上を目指していかなければいけないので、『自分に妥協しない』ということは身に付いたと思いますね。早稲田のブランドを掲げるためにではないですけど、そのために自分に磨きをかけ続けるということはできたのかなと思います。

――元々妥協してしまう性格だったのでしょうか

大舘 そうですね。(大学四年間で)自分を律することが身に付いたと思います。

「一生早稲田の看板を背負って」(大舘)


ベンチで自軍の得点に喜ぶ大舘

――助け合ってきた三年間のマネジャー生活だったと思います。今になってお互いに掛け合いたい言葉はありますか

飯島 ほんとに僕は感謝しかないですよ!

大舘 自分も感謝しかないですよ!

飯島 僕が主務になった時も、自分が大舘に「俺が主務やっていいか」と聞いたら譲ってくれたので…

大舘 いや、自分が(飯島に主務を)お願いしたという感じですよ。

飯島 いや、僕は(大舘が)譲ってくれたという感じですね(笑)。

大舘 俺は(飯島に)お願いしたという感じですね(笑)。

飯島 同学年に主務と副務が存在するのが去年からで。でも去年の主務(高橋朋玄氏)は連盟(全体の)主務で、チーム内での副務の重要性が結構高かったんですけど。

大舘 今年は早稲田大学初の『(連盟主務の)当番校ではない中での二人体制』だったので、自分はどうすればいいのかなっていう感じだったんですけど、基本的に自分は飯島がめんどくさがっていることをやるという役回りでしたね(笑)。

一同 (笑)。

飯島 でもそれを快く受け入れてくれるので、僕としては大変ありがたい存在でしたね。僕が至らないことも「あれ大丈夫? これ大丈夫?」ってポンと言ってくれて、しかもそれが抜けていたりしたことも結構あったので本当に助けられました。主務と副務ってこうあるべきなんだな、と一つ思いましたね。

大舘 やっぱり主務を立てるべきところは立てないとね(笑)。

一同 (笑)。

――では最後に、来年以降に向けた抱負を

飯島 自分は(卒業後)留学します。月並みになるんですけど、もっと広い世界を見たいと思いました。ずっと野球の世界にいたので。もちろんその中で、いろんな人とつながりを持てたんですけど、野球の世界で生きてきた人間なので、もっと広い世界を見て、もっといろいろなことを勉強したいという気持ちがあります。それが一番ですね。やはり英語が分かるということは、世界中の論文も読めますし。たまに英語で書かれた論文を読むんですけど、翻訳しながらだと時間がかかってしまうので。新しいことももっと知ることは重要なので、すらすらと読めるようになれればなと思います。どうなるかは分からないんですけど、とりあえずビッグになって帰ってきたいと思います。

大舘 自分は早稲田の大学職員になります。一生早稲田の看板を背負って働けるんですけど、これからも早稲田の名に恥じぬように。早稲田大学野球部で培ったものを生かして、頑張っていきたいと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 石﨑開)


チームの屋台骨を支えた二人。新たなステップへと歩み始めます

◆飯島匠太郎(いいじま・しょうたろう)(※写真右)
 1997(平9)年1月26日生まれ。176センチ、75キロ。千葉・市川高出身。スポーツ科学部4年。主務。大学卒業後は米・オレゴン州のポートランドに留学予定

◆大舘侑生(おおだて・ゆうき)
 1997(平9)年9月14日生まれ。172センチ、65キロ。埼玉・早大本庄出身。教育学部4年。副務。大学卒業後は早稲田大学の職員に