今年2月、新たな歴史を作ったロジャー・フェデラー(スイス)。彼は「ATP500 ドバイ」でツアーレベル通算100回目のシングルス優勝を果たし、109回の優勝を達成したジミー・コナーズ(アメリカ)に続く驚異的な記録を祝った。ほとんどの選手が夢…

今年2月、新たな歴史を作ったロジャー・フェデラー(スイス)。彼は「ATP500 ドバイ」でツアーレベル通算100回目のシングルス優勝を果たし、109回の優勝を達成したジミー・コナーズ(アメリカ)に続く驚異的な記録を祝った。

ほとんどの選手が夢見るのは1つのトロフィーを掲げることだが、偉大なフェデラーにも他の選手たちと共通している点が1つある。それは、100個のタイトルもチャレンジャーレベルでの最初の優勝なくしては達成できなかった、という点だ。これは、今上を目指している選手全員に共通する。

フェデラーがプロ選手として初めて優勝したのは、今から20年前、1999年10月下旬に行われたフランス・ブレストでの室内ハードコートだった。当時は、アンドレ・アガシ(アメリカ)とピート・サンプラス(アメリカ)が世界1位の座を争っており、そこにエフゲニー・カフェルニコフ(ロシア)とパトリック・ラフター(オーストラリア)も加わっていた。才能を秘めた10代のフェデラーは次世代の星であり、将来は彼らトップ集団を脅かす存在になることが期待されていた

スイスのヒーローは、感動的な試合、記録破りの優勝数、息を飲むスーパーショットなど、数々の伝説を作ってきたが、2003年の「ウィンブルドン」でグランドスラム初の優勝を勝ち取るまでは、他の選手と同じように、スポットライトに照らされた大きなアリーナやスタジアムとはほど遠い場所で、若者なりに苦心しながら成功を一つ一つ積み重ねてきたのだ。

ブレストは、パリから車で5時間以上もかかる、大西洋に面したフランス最西端の場所だった。18歳のフェデラーは決勝に進んだが、これは現在のフェデラーが臨む決勝戦とはまるで違っていた。彼がコートに登場しても音楽は鳴らないし、声を枯らして声援を送ったり、セルフィーや写真を撮ろうと押し寄せるファンの大群衆もいない。それらはもっと後で始まったことなのだ。

その時はまだその重要性が見えていなかったかもしれないが、この初優勝はフェデラーのキャリア初期において重要な瞬間だった。彼が決勝に進むまでの試合で落としたのは1セットのみ。決勝戦では、マックス・ミルニー(ベラルーシ)に7-6(4)、6-3で勝った。

「あの試合は(当時の僕にとって)とても大きな経験だったよ」と、フェデラーは振り返る。「最終的にトーナメントで優勝できたし、“野獣“ と言われていたマックス・ミルニーを決勝で倒せたからね。あの優勝のおかげで、その年の世界ランキングを65位前後で終えられたんだ。チャレンジャーレベルで優勝できたのはあの一回だけだったから、とても思い出深いよ」

フェデラーは、ジュニアの頃からすでに注目されていたが、プロとしての成功が約束されたわけではない。才能や運にかかわらず、トップになるためには並々ならぬ努力が必要なのだ。

フェデラーがチャレンジャー大会に出場したのは「ブレスト・チャレンジャー」が8回目で、それが最後となった。その3ヶ月後の2000年2月、「ATP250 マルセイユ」でATPツアーの決勝に進出。その2000年にはATPツアーにフルタイムで参加するようになった。ほとんどの選手はチャレンジャーレベルで数年かけてランキングを上げていくが、フェデラーは若いうちにチャンスを掴んだ、プロの中では例外的な存在となった。

チャレンジャーレベルの大会には、フェデラーにとって最初の芝コートでの成功となった大会もあった。1999年にイギリスのサービトンで行われた大会で、フェデラーは準決勝まで進んだ。その後1ヶ月も経たないうちに、のちの芝の王者フェデラーが、「ウィンブルドン」デビューを果たしたのだった。

「チャレンジャーレベルとATPレベルにそれほど大きな差があるとは思っていないよ。自分の精神力は試されるけどね。チャレンジャーレベルは大抵小さい街で開催されるから、そこへ行くだけでも大変な労力が必要とされるんだ。だから、図太くて精神的にタフじゃないとダメなんだよ。いろんなタフな状況を乗り越えていかないといけない。僕はチャレンジャーレベルの選手たちに敬意を持っているよ」

ATPチャレンジャーツアーは、プロテニスの世界で成功しようとするすべての選手が通る道であり、ATPツアーのビッグステージやグランドスラムで戦う日を目指す選手たちがスタートする場所なのだ。

※写真は「ATP500 ドバイ」でのフェデラー

(Photo by Amin Mohammad Jamali/Getty Images)

翻訳ニュース/ATPTour.com