連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第6回:井村雅代(後編)

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 国をあげてシンクロ(現アーティスティックスイミング)の強化を図る中国では、プールにおける施設機材、合宿地の選択など、環境面においては最良のバックアップがなされた。


現在は来年の東京五輪に向け、日本で指揮を執っている井村雅代

 photo by YUTAKA/アフロスポーツ

 しかし、約14億人という世界最大の人口を擁し、漢民族と55を数える少数民族で構成されるこの大国の指導においては、常に大きな問題が存在した。

 サッカーの世界において1980年代から、メキシコ、コスタリカ、アメリカ、ナイジェリア、中国と文化的背景のまったく異なる5つの国の代表を率いて5大会連続でW杯出場を果たしたセルビア人の名将ボラ・ミルティノビッチは中国での体験について筆者にこう語ったことがある。

「あの国で団体種目の代表監督をするということは、極めて難しい。私はユーゴスラビア出身ということで、その問題に耐性があったから良かったが、初めて指導するコーチはまず驚いて戸惑うはずだ」

 政治とスポーツとの距離が近いのである。代表選手の選考は言うまでもなく、監督の専権事項であるが、地域主義の強さから、各地の協会からこの選手を使って欲しいというプレッシャーがすさまじかったという。

 多民族国家であったかつてのユーゴスラビアも同様であった。拙著『オシムの言葉』に記したが、ユーゴの最後の代表監督だったイビツァ・オシムもこの介入と闘っていた。

 国際試合の前に選手を招集しようとすると、クロアチア、セルビア、スロベニア、ボスニア…、各共和国の政治家が必ず「わが民族の選手を使え」と圧力をかけてきた。しかし、オシムは怯まなかった。

 評価基準はあくまでもサッカー、それゆえに「その選手がすばらしければ、私はコソボのアルバニア人で11人揃えてみせる」と、ユーゴで最も被差別の地位にあったアルバニア人の名を出してまで、一切の忖度をしないことを宣言した。激しい紛争の後で、オシムが現在でも全民族から、信用され、慕われるのはこの姿勢にある。

 井村は、中国でこの問題に直面した。北京、上海、南京、成都などから選抜されてやってきた選手たちは、チームメイトとのつながりよりも出身省の意向を大切にする。オシムの通訳であったアルマ・ハリロビッチは1980年代にベオグラードから北京大学に国費留学していた経験があるが、北京では身をもってこの地域主義をユーゴ以上に感じていたという。

「ユーゴ人の私も驚くほどで、アイデンティティーは出身省にあり、大学の寮でも学生たちは出身地ごとに固まってあまり交流をしようとしなかったのです。元々、省ごとに言葉も文化も違うので、そうなると他の省の学生とはひとりも友人にならずに卒業することも決して珍しくなかった」

 スポーツの世界では、さらにその傾向が強まる。各省が供出する予算によって北京に派遣された選手はまず地元の期待を背負っている。同じナショナルチームでも他省の選手には、むしろライバル意識をむき出しにする。

 井村は、北京五輪のチーム種目の代表選考において最初の洗礼を受ける。13人から10人に絞る段階で、演技の悪かった江蘇省南京出身の選手をふたり落とすことにした。しかし、この判断に南京の体育リーダーが黙っていなかった。

「ふたりを落としたら、南京からの代表がいなくなる。それならば、我々はもうシンクロを辞める」

 落選させたら、以降はこの競技を省としてボイコットするという、いわば恫喝であった。シンクロ担当の委員長は忖度を薦めたが、井村は南京の体育リーダーに言い返した。

「それならどうぞ辞めて下さい。南京が辞めても北京でメダルが取れれば、他の省が力を入れて来ますよ」

 頑として譲らず3日間が過ぎた。すべてを任せてくれるということではなかったのか。

「そういう要求が続くのなら私が直接話します」

 最後は要人への直談判の姿勢を見せる井村に、シンクロ担当の委員長が折れて調整に入ってくれた。

 デュエットでも同様の事態があった。井村は四川省からやってきた双子の選手に注目した。それが蒋亭亭(亭には女ヘンがつく/ジャン・ティンティン)と蒋文文(ジャン・ウェンウェン)だった。ともに身体が柔らかく、手足が長い。

「ぴんと来ました。この子らをしっかりと伸ばしていけばロシアにだって勝てる」

 しかし、シンクロのための筋肉がまだ出来上がっていなかった。鍛え始めると、当初はケガや病気を理由に練習を休むことが多かった。しかし、井村は妥協を許さなかった。2カ月が経過した頃、「どちらかが休んでいるのなら、もう練習しないでよろしい。ふたりが揃わない限り、私はもう教えない」

 そう突き放すと、生活習慣を改め、自分たちで健康管理をやり出した。その厳しさはふたりにとって初めての経験であったが、フィジカルを徹底的に鍛えあげられ、技術も基礎から叩き込まれて大きな成長曲線を描いた。

 世界で戦えるのはこのティンティンとウェンウェンしかいないと確信した井村は、蒋姉妹を中国のデュエット代表に選ぶと宣言した。しかし、これも前例のないことであった。五輪は北京開催であり、それまでのデュエットの代表の座を不動にしていたのも北京の選手。それを外して四川省出身者を抜擢するというのは前代未聞であった。

 威信をかけた首都での大会である。この人選にもミルティノビッチが言っていたような政治的な大きな圧力があったことは、想像するに難くない。しかし、最後は中国の水泳連盟の会長がこの判断をあらゆるものから守ってくれた。就任以来、井村の指導ぶりをつぶさに見ていた会長は、必ず結果につながるだろうという信頼を置いてくれていた。

「会長たちは大変やったんやろうと思います。北京の偉い人にしてみたら、『ずっとうちの選手が一番やったのに、わけのわからん日本人が来て何するねん』みたいな思いがあったんやないでしょうか。でも、あのふたりやないと戦えないと確信があったし、今後の中国のシンクロを引っ張るのもあの子らやと思ったから迷いはなかったです」

 井村が予見した通り、蒋姉妹は息の長い選手として活躍を続けている。2012年のロンドン五輪と2013年の世界水泳選手権ではデュエットのテクニカルとフリーの2種目で銀を獲得、結婚と出産を機に一度は引退するが、2017年には復帰を果たして再び世界水泳選手権でシルバーメダルを2つ首にかけた。

 井村がその才能を見出してからすでに10年以上が経過しているが、ふたりはアーティスティックスイミング強国となった中国をけん引し、今も現役である。北京五輪の選手選考で安易に慣例に流されていたら、この中国の隆盛は到底なかったと言えるだろう。

 北京ではシンクロにおける初のメダル(チーム種目で銅)を中国にもたらし、歴史に名を刻んだ。しかし、続けて指揮を執ったロンドン五輪においても再びチーム選考で問題が起きた。

 10人のメンバーからひとり外す段階になったときである。水泳連盟の副会長から「広東省からひとり外して欲しい」という要請が来たのだ。広東からは3人の選手が選抜されており、ここから削って、他省から代表を選んで欲しいというまたも政治的なジャッジだった。

 実力主義を無視した要求を井村は言下に却下する。

「それをやったら演技は壊れます。ロンドンで4位でもいいのなら、それでもかまいません。その場合は私を首にして他のコーチを起用して下さい」

 各省の体育リーダーからは、恫喝というムチのみならず、贈答品というアメも用意されていた。選考期間中に食事に誘い、無理やり、物品を置いて行こうとする職員もいた。井村は一切の会食を断り、金品は即座に送り返した。井村のエネルギーは指導と同時にこの巨大な国の官僚組織との闘いにも費やさねばならなかった。

 最終的に意志を貫いて作り上げた中国代表チームは、ロンドンで銀メダルを獲得した。ロシアと並んで2強と言われる時代の幕開けだった。

 2012年8月11日。スポーツ紙「中国体育報」が一面トップに持ってきた一枚の写真がある。初めて見たその構図を前に井村はふと、「私はこれのために頑張ったのかもしれない」と思った。チームの全選手がひとつになって抱き合っているのだ。



ロンドン五輪でフリールーティンの演技後に抱き合う中国の選手たち photo by ロイター/アフロ

 大見出しは、テーマにした「バタフライ」へのオマージュで「8つの蝶が水中で華麗に花開いた」。

 記事は続ける。「2008年以来、歴史を作ってきたシンクロの女子は、昨晩また新しい成功を手にした。選手はお互いに抱き合って泣いています。私たちは日本の井村さんに感謝しています」

 一見、何でもないメッセージのようだが、深い意味を持つのは、「お互いに抱き合って泣いています」の一文である。

 北京大会で初のメダルを戴冠したとき、選手たちはもちろん歓喜の声を上げた。しかし、抱き合ったのは四川、広東、福建、雲南…、それぞれの省の役人たちとだった。ところが、4年後、ロンドンではサブの選手も含めて省の枠を超えて選手だけで抱擁したのだ。初めての出来事を記者は感動に震える筆致で伝え、井村への謝辞を書いたのだ。

 中国チームは、名実ともにひとつになった。選手たちは井村の首にメダルを捧げた。選手は井村をずっと見ていた。この監督は私たちをどこに導こうとしているのか。私たちをスポーツ以外のものから守ってくれるのか。

 井村は公正かつ真っ直ぐに競技の実力だけで評価をした。慕ったのは選手だけではなかった。中国の体育協会の幹部が言った。

「先生の一番大きな偉業は、中国のシンクロを強くして下さったことではありません。日本の人たちが中国の大会において観客席で何の遠慮もなく日本の選手を応援できるようになったんです。それこそが先生の功績なのです」

 幹部は日本人が当たり前のように日本選手を応援できる環境になったことが嬉しいと言った。ロンドン五輪のこの年には、9月に尖閣諸島に端を発して過去最大の反日デモが起こっていた。日系企業の工場や販売店が放火され、日本車が破壊されるという事態に及んでいた。それでもシンクロの会場だけは空気が違った。日本選手に対するリスペクトが全体を包む。井村の活動は観客席の人々を皆、親日家に変えていたのだ。

 メダルという結果だけではない。

「このために私は中国でがんばったのかもしれない」

 選手が全員で抱き合う写真を前にそう思う人格だからこそ、成し遂げられたひとつの奇跡。スポーツは常に政治に負けるが、稀に政治を超越させる指導者が現れる。その「中国体育報」は、今でも井村の書斎の一番大切な引き出しに保管されている。