連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第5回:井村雅代(前編)

 派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見すえた仕事のしかたゆえに、その結果や実績から言えば凡庸、否、惨々たるものであることが多い。

 しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。

 連載の第5回は、日本のアーティスティックスイミング(旧名:シンクロナイズドスイミング)を語るうえで欠かせない人物、井村雅代。


厳しくも愛ある指導で日本のアーティスティックスイミングの礎を築いた井村雅代

 photo by Kimura Yukihiko

 来年の東京五輪に向けて日本代表を率いる井村雅代は、「日本シンクロの母」と呼ばれている。オリンピックの正式種目となった1984年のロサンゼルス大会では元好三和子、木村さえ子組がデュエットで銅メダルを獲得して以降、自ら指導したソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、リオとすべての五輪大会で日本はメダルを獲得している。

 そしてまた、井村雅代を中国のメディアは「教母」という言葉で伝える。英語にすれば「ゴッドマザー」だろうか。かつては世界ランキング6位~7位でくすぶっていた国を今や王者ロシアと並ぶ2強に育て上げた。「飲水思源」(井戸を掘ってくれた人の恩を忘れぬ)の国にとって井村は大恩人という扱いである。まさに、結果も同時に出し続けたアジアのアーティスティックスイミングの「礎の人」である。

 しかし、その指導者半生は逆風の連続であった。礎を築き、結果を出しながらも不遇を余儀なくされ、前に進む決意が少しでも怯めば、そこで終焉にされるという瞬間がいくつもあった。それでも「失敗したらどうしようという思いがよぎったら、こうやって頭を振ってそれを追い出すねん。成功するためのことしか、私は考えへん」。

 その思考と実践の軌跡を辿る。

 1973年春、天理大学を卒業した井村は、保健体育の教員として大阪市内の中学校に赴任する。教育委員会が定める同和教育推進校と教育困難校にそれぞれ4年ずつ、計8年間を務め上げた。当時は、ともに荒れていたことで知られた中学で、初任校はサッカー元日本代表監督の岡田武史の母校でもある。岡田は井村との対談の中で、母校が荒れていた時代の頃を「朝、教室に行ったら、鉈(なた)を黒板に叩きつけている同級生がいた。何やコレと思いました」と回顧している。

 一方、井村は「新任やったから、他校を知らず、学校はこんなもんや」と思いながら、教室に落ちているタバコの吸い殻やシンナーのビニール、ガムのくずを「全部、拾え!」と怒鳴るところから、授業を始めた。保健体育を受け持ち、水泳部のコーチを務め、生活指導を担当した。多忙を極めたこの教員生活が井村の指導の原点でもある。

 生徒が人の道に外れたことをすれば厳しく叱るが、絶対に見捨てない。指導にあたった不良少女たちはやがて、全力で怒り、全力で愛情を注いで正面からぶつかってくる新任教師に懐いていった。

 ある日、不良グループの男子生徒がやってきて、井村にくしゃくしゃに丸められた手書きのメモを渡すと走り去った。彼はパシリだった。紙を広げたとたん、井村は走り出した。そこには自死を予告する文字が並んでいたのだ。

「SOSや」

 書いたのは誰かすぐにわかった。何度も生活指導したやんちゃな女生徒だった。異性関係が原因だった。

「私に助けを求めている。絶対に近くにいる!」

 片っ端から、校舎の女子トイレを叩いて回った。階上の奥の個室だけ、鍵が閉められていた。

「〇〇やろ! おるんやろ! 開けなさい」

 生徒の名前を叫びながら、ドアに飛び乗った。果たしてそこには、感冒薬を大量に飲み、手首を切った少女が血だらけでうずくまっていた。必死に助け出し、同僚教師の車で病院に急送した。一刻も早く止血をして欲しいと焦る井村の前で若い医師は生徒に向かってゆっくりと言った。

「君はどうしたいんや。治して欲しいんか? このままでええのか?」

「…治して欲しいです」

「よし、分かった」

 迅速に看護師に指示を出すと即座に手術に入った。井村は修羅場を見てこれは学ぶとこや、と思った。他の教師は自殺未遂事件に対して及び腰で「病院に送ったら、もう関わらんほうがええですよ」と言う者さえいたが、井村は毅然として翌日も病院に向かって生徒と家族を見舞った。

「どんなに荒れた環境でもたった10代で人生をあきらめたらあかん。生きていくうちに絶対に目標は見つかる」

 目的が持てずに刹那的に生きて、もう自分の人生はこんなもんやと、決めつけている生徒に生きる目的を持たせることを井村は自らに課した。複雑な家庭環境は千差万別で、子どもたちの描く未来もそれぞれに異なるが、個別にしっかりと向き合って来た。

「それに比べたら、シンクロの指導のほうが楽ですよ。すでにメダルという明確な目標があるんですから」

 井村がシンクロと出会ったのは、小学4年生から通った浜寺水練学校(=浜水)だった。まだ日本ではマイナーな競技であったが、それを見た母親が「シンクロってきれいやね」とつぶいたのを覚えている。


日本の選手たちに指導をする井村雅代

 photo by 西村尚己/アフロスポーツ

 中学から没頭した選手生活を大学で終え、教員をしながらの指導も続けていたが、浜水から、専任コーチになることを請われた。先述したように教員という仕事にやりがいも誇りも持っていた。

 専任コーチとしての収入は、教師に比べれば比較にならないほど低く、安定した職も捨てることになる。それでもシンクロをしっかりと教えられる人材は、自分をおいて日本にはいないと考えると、恩返しの意味も込めてコーチ一本に絞った。1981年のことだった。3年後のロス五輪では手塩にかけた元好がソロとデュエットで銅メダルに輝いた。

 夏季冬季合わせて19回の五輪取材をこなして来たテレビ朝日アナウンサーの宮嶋泰子は、シンクロの黎明期からこの競技をずって見て来た稀有なジャーナリストであるが、井村の功績をこう語る。

「水泳連盟からの支援もなく、競泳よりもずっと低く見られていた時代に井村さんが、シンクロでメダルを獲得したことは、本当に奇跡に近いことなんです。でも、それに気がついている人がほとんどいない。あの種目がどれだけ過酷で厳しいものか、知られていないことに私は歯がゆい思いをしています」

 バックアップもない、陽も当たらない中で大きな功績をロスで刻んだ。しかし、井村の最初の大きな試練は、この直後に降りかかった。浜水の方から、突然の給与の引き下げを言い渡されてしまうのである。運営の母体であった浅香山病院の経営上の理由ということで、一日千円の日給で指導してくれというものであった。

 実質的な解雇であった。五輪メダリストを育て上げながら、追われるかたちで浜水を出た井村に、ふたりの選手がそれでも先生の指導を受けたいとついて来た。これに対して古巣の浜水から圧がかかった。井村にはプール施設を使用させないように、という回状が各地に出されたのである。ホームを失った。

「このときは周りの人が全員、敵に見えた」

 心が折れる理由は数限りなくあったが、それでも指導を仰ぎたいというふたりを放ってしまうわけにはいかない。日本のシンクロ史上、初のメダルをもたらしながらも教える環境もままならない。ゼロどころかマイナスから「井村シンクロクラブ」を立ち上げた井村は、連日、借りられるプールを渡り歩き、ときには京都まで足を伸ばして指導を続けた。八方ふさがりとなった井村がもしもここで指導を諦めてしまっていたら、現在のアジアの水泳シーンはまったく変わったものになっていただろう。

 井村は、劣悪な環境の中で選手を育て、結果を出し続けた。気がつけば日本代表のコーチとして6大会連続でメダルを獲得、国内の枠を大きく超えた世界的指導者として認知されていった。

 アテネ五輪を終えて退任すると、2008年の北京五輪を控えた中国の水泳連盟から、代表監督のオファーが届いた。

 指導者の実力が海外から、しかもオリンピック開催国から認められたことは大きな栄誉であり、日本のスポーツ界としても誇るべきことであった。しかし、当時の水泳連盟の反応はまるで真逆であった。ひと言で言えば「中国に行くな。行けば裏切り者だ」というものであった。

 あまりに狭量である。これがサッカーの世界であればどうであったろうか。日本の指導者が世界に認められてようやく輸出できる時代が来たということで、協会をあげて送り出したと思われる。

 事実、クラブチームであるが、フランスのグルノーブルのGMに祖母井秀隆氏が就任した際、とあるサッカー協会幹部から氏に、日本人監督を起用してくれないかという打診さえあった。すでにヨーロッパの監督が構想にあり、祖母井氏はこれを断ったが、日本の監督がヨーロッパでもまれることで人材として大きなものを日本に持ち帰ってくれるという巨視的な見方がそこにはあった。

 井村の考えもまた大局にあった。自分がこのオファーを断れば、中国は間違いなく、世界最強のロシアからコーチを招聘するだろう。そうなればシンクロの世界の趨勢はますますロシア型の手足の長さを活かした演技がメインストリームになり、速さと同調性を生命線とする日本のシンクロは傍流に追いやられてしまう。母が美しいとつぶいたシンクロ本来の美意識のためにも、アジアのチームのためにもそれに歯止めをかけなくてはいけない。

 しかし、海を渡るという井村のこの決断に対しては、連盟の重鎮から「俺の目の黒いうちは絶対にあいつに日本での指導はさせん」との言葉が発せられた。

 経験をフィードバックさせるどころか、退路を断つような言質である。連盟のトップがパイオニアになろうとする指導者の挑戦をリスペクトせずに逆の空気を熟成すれば、関係者もそれになびく。世論も煽られて、井村を好意的に送り出すどころか、ほとんどがバッシングであった。再び四面楚歌の状態であった。それでも井村の覚悟は変わらなかった。

(つづく)