向正面から世界が見える~大相撲・外国人力士物語第4回:友綱親方(2) 旭天鵬は1992年、初の「モンゴル人力士」として、旭鷲山ら6人で日本にやって来たうちのひとりだ。旭鷲山と出世を争うように番付を上げ、1998年初場所(1月場所)で新入…

向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第4回:友綱親方(2)

 旭天鵬は1992年、初の「モンゴル人力士」として、旭鷲山ら6人で日本にやって来たうちのひとりだ。旭鷲山と出世を争うように番付を上げ、1998年初場所(1月場所)で新入幕。以来、横綱・朝青龍、白鵬、鶴竜ら、モンゴル人力士の先駆者として存在感を示してきた。2012年夏場所(5月場所)では、37歳にして涙の初優勝を成し遂げた。

 2015年名古屋場所(7月場所)、40歳10カ月で引退。その後、年寄・大島を襲名した。2017年に友綱部屋を継承し、現在は審判委員を務める一方、11人の力士たちの育成に力を注いでいる――。

        ◆        ◆        ◆

 1992年、春場所(3月場所)で力士としてのスタートを切りましたが、相撲部屋での生活は本当に疑問に思うことばかりでした。

 最初に覚えた日本語は、「おつかれさんでございます」。

 相撲界は上下関係が厳しくて、年上の人には敬語を使わなければならないのに、それができずに怒られたり、食べ物に関しても、最初はかなり抵抗がありました。

 来日して27年が経つ今では、笑い話になりますが、当時は魚の入ったチャンコが食べられなかったし、味噌味にも慣れなくて、野菜も嫌いだった。今では刺身も大好物だし、生野菜のサラダもよく食べる。人間は、暮らしている土地の文化に慣れていくものだなぁ……としみじみ思います。

 さて、1992年夏場所(5月場所)、序ノ口で6勝1敗の好成績を収めた僕は、名古屋場所(7月場所)も勝ち越して、番付を少しずつ上げていました。

 だけど、魔が差したんですね。厳しい稽古に加えて、意味がわからないことで怒られる毎日が嫌になって、仲間5人と「モンゴルに帰ろう」と、部屋からの脱走を企てたのです。8月下旬のことでした。

 とはいえ、パスポートも持っていないし、モンゴルへの帰り方もわからないので、とりあえず、渋谷にあるモンゴル大使館へ駆け込みました。

 僕たちの行動に慌てた親方は、おかみさんと一緒に大使館にやって来ました。

「キミたちは、モンゴルを代表して日本にやって来た。3年間は相撲を取るという約束がある」などと説明されても、僕の頭の中は「モンゴルに帰る」ことしかなかった。

 親方の説得を受け入れた旭鷲山、旭鷹は帰国を撤回したものの、僕、旭雪山、旭獅子の3人はそのままモンゴルに帰国することになったのです(注:旭嵐山だけ脱走しなかった)。

 そうして1カ月が経ち、僕は実家でのんびりしていました。

 9月は秋場所(9月場所)があるし、みんなは相撲を取っているのだろうけれど、当時モンゴルではテレビ放送もやっていないので、僕は自分が日本で力士だったことも自然に忘れかけていました。

 10月になり、大島親方、旭鷲山、旭嵐山がモンゴルを訪れて、ホテルで食事会をすると連絡が来たのです。気が進まないまま彼らと再会してみると、親方は「テンホウ、おまえの廃業届(当時)はまだ相撲協会に出していない。今なら力士に復帰できるぞ!」と言ったのです。

 そして、「旭鷲山たちが日本でがんばっているんだから、おまえだってできるだろう!」と、熱心に相撲界復帰を勧めてくださったんです。

 そうだよなぁ……。このまま中途半端な生活を続けていても仕方ない。両親も自分のことを不甲斐なく思っているはずだし、日本から逃げ帰ってきたことで、周囲の人から両親が責められているのも知っていました。

「親方、もう一度相撲をやらせてください」

 僕は気持ちを改めました。

 11月の九州場所(11月場所)から相撲界に”出戻り”した僕を取り巻く空気は、正直、悪かったです(笑)。一度逃げた者に対して、相撲部屋の人間は厳しい目を向けます。

 今だから話しますが、実際、その空気に負けてしまい、翌初場所の間は大使館から国技館に通うという、特別待遇も許していただきました。

 18歳。ずいぶん心が弱かったと思います。相撲部屋の生活に慣れてきたのは、日本に戻って1年が過ぎた頃からでしょうか。番付も徐々に上がり、1994年春場所(3月場所)では幕下に昇進しました。

 一方、旭鷲山はぐいぐい番付を上げて、1995年春場所、新十両に昇進しました。モンゴル人初の関取になったことで、日本のメディアはもちろん、モンゴル国内でも大騒ぎになりました。

 関取になれば給料をもらえるし、付け人も付く。これまでの生活が一変します。一緒にモンゴルから来日して、身近なライバルだったはずの旭鷲山が、ひと足早く違う世界に行ってしまった――。

 これには、普段は闘争心を表に出すタイプでない僕も、燃えないはずがありません。1年後の1996年春場所、僕は21歳で新十両に昇進しました。

 モンゴルから日本にやってきて4年。「将来が見えない」と悩んで、入門半年でモンゴルに逃げ帰り、両親にはずいぶん迷惑をかけてしまった。なかなか気持ちが定まらない僕を、黙って信じて見守ってくれたのも両親です。両親には早く恩返しをしたいと思っていました。

 関取になってもらった給料で、自分が買いたいものはとくになかったので、当時流行っていた自動車『パジェロ』を両親に贈りました。その頃のモンゴルは道路事情が悪くて、四駆の自動車があれば、家族は移動が便利だろうな……と、前から考えていたんです。

 その資金の400~500万円は、当然ローンです(笑)。両親、とくに父はパジェロをとても気に入ってくれて、10年以上大事に乗ってくれました。



旭鷲山らとともにモンゴルでの相撲ブームの火付け役となった旭天鵬

 僕が幕内に定着したと言えるのは、1999年夏場所、3度目の入幕を果たした頃からでしょうか。

 その間、同期生の旭鷲山は、土俵上でさまざまな技を繰り出して、「技のデパート・モンゴル支店」なるニックネームで人気者になっていたのですが、2000年初場所で、僕も初めての三賞となる敢闘賞をいただき、「ようやく旭鷲山に追いついたかな?」という気持ちでした。

 僕たちモンゴル人6人が大島部屋に入門してから、8年が経っていました。

 翌年には3人に減りましたが、旭鷲山と僕は幕内に定着し、細身の旭天山(旭嵐山から改名)は幕下で奮闘。旭鷲山の入幕をきっかけに、モンゴル国内で起きた”相撲ブーム”はどんどん盛り上がっていきました。

 モンゴルの相撲ブームに火をつけた決定的な出来事は、日本の大相撲中継がテレビで見られるようになったことでしょう。

 たしか最初の頃は夕方5時からの放送でしたが、幕内上位に進出した旭鷲山が、横綱、大関と対戦するシーンがリアルタイムで見られるということで、大人気になったのです。

 それからしばらくして、幕内の取組がすべて放送されて、僕の取組もモンゴルで見てもらえるようになりました。そもそも相撲が盛んで、「男の子が生まれたら相撲をさせろ」という言い伝えがあるモンゴルですから、「相撲好き」が一気に爆発したということなのでしょう。

(つづく)