スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第8回カントナ、イブラヒモビッチと登場してきた「破格のサッカースター」シリーズ。…
スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第8回
カントナ、イブラヒモビッチと登場してきた「破格のサッカースター」シリーズ。今回はあのペレより断然多い5000ゴールを挙げたといわれているストライカー。ヨーゼフ・ビカンを紹介する。
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<ペレを超えた「5000得点」の男>
ペレの生涯得点は1281ゴール。フットボールの王はFIFA(国際サッカー連盟)によると、公式記録の中では史上最多得点者ということになっている。しかし、非公式の記録などを含めると、ペレの得点数を超えていたかもしれないストライカーが少なくとも2人いる。

1930~50年代に活躍したストライカー、ヨーゼフ・
1人はアルトゥール・フリーデンライヒ。1919年のコパアメリカでブラジル初優勝の原動力となったストライカーで、1930年代までプレーしていた。白人だけがプレーしていたブラジルで初の有色人種(ドイツ人の父とアフリカ出身の母)の名選手といわれている。
フリーデンライヒの得点数は1326ゴール。これが正しいなら、史上最多得点者はペレではなくフリーデンライヒだ。ところが、フリーデンライヒの記録は詳細が不明なところもあり、現在は1229ゴールが正しいのではないかとされている。1229試合で1329ゴールではなく、1329試合で1229ゴールだということだ。後者だとペレの記録に52ゴール及ばない。
もう1人はヨーゼフ・ビカン。1930~50年代にプレーしたストライカーだ。
「5000ゴールの男がいる」
ペレが1000ゴールを達成するかどうかが話題になっていた頃、あるオーストリア人の元選手が言い出した。フリーデンライヒの1326ゴールどころではない、5000ゴールである。すでに引退していたビカンにメディアが真偽を確かめに行くと、本人はこう答えたという。
「俺がペレの5倍ゴールしたと言ったところで、いったい誰が信用すると思う?」
公式戦の得点数は762ゴールだが、親善試合などを合わせると1468ゴールではないかとされている。1シーズンのハイアベレージは24試合で57得点。27年間のキャリアで得点王12回、1934~44年は5年連続でヨーロッパの最多得点者だった。ハットトリックは数知れず、1試合7得点が3回ある。5000点はともかく、1000点は確実に超えていて、1468ゴールが正しければペレをも超えている。
愛称はペピ。破格というより波乱のフットボーラーだった。
<100m10秒8の韋駄天ストライカー>
ボヘミア人の父、チェコ人の母、"ペピ"・ビカンはオーストリアのウィーンで生まれた。フットボーラーだった父親は、試合で腎臓を蹴られたのがもとで30歳の若さで他界。ペピはその時まだ8歳だった。母親は食堂で働き、貧しい一家を支えた。12歳でヘルタ・ウィーンのユースチームでプレーを始めると、試合で得点するたびに小銭をもらっていたという。
靴が買えず、裸足でプレーしていた少年時代に卓越したボール感覚を身につけ、100mを10秒8で駆け抜けた。五輪のスプリンター並のタイムである。18歳で首都最大のクラブであるラピド・ウィーンと契約する。
ラピド・ウィーンでの4シーズンで49試合出場、52ゴール。1934年イタリアワールドカップでオーストリア代表としてプレーしている。当時のオーストリアは「ヴンダーチーム」(奇跡のチーム)と呼ばれた最強クラスのナショナルチームで、この大会はベスト4だった。
1937年にチェコスロバキアのスラビア・プラハへ移籍。217試合で395ゴール。この時期がペピの全盛期だろう。母親の国であるチェコスロバキアの国籍を申請して受理されたが、手続きが遅れて1938年のフランスワールドカップにはチェコスロバキア代表として出場できなかった。
第二次世界大戦が終わるや、ヨーロッパの名だたるクラブからオファーが来ている。イタリアのユベントスは破格の条件を提示してきたが、ペピはプラハにとどまった。どうもイタリアが共産主義になるらしいという噂を信じたらしい。ところが、皮肉なことに共産化したのはイタリアではなくチェコスロバキアのほうだった。
オーストリアにいた時は、ナチス・ドイツに併合された。ヴンダーチームのメンバーはドイツ代表に組み込まれている。ヴンダーチームの象徴だったマティアス・シンデラーは、ドイツ代表への招集を何度も拒否し、最後に旧オーストリア対ナチス・ドイツの試合でドイツを叩きのめす立役者になったあと、アパートで自殺した。遺書もなく、他殺説もある謎の死だった。
ペピはナチスへの協力を拒否してチェコスロバキアに渡ったのだが、今度は共産党から協力を要請されることになってしまう。ペピはそれも断ったのでプラハに居づらくなり、3つのクラブを転々と渡り歩くのだが、3つめのクラローヴァでトラブルに巻き込まれてしまい、ディナモ・プラハと名を変えていたスラビア・プラハへ戻った。そこで2シーズン、引退した時は42歳。リーグ最年長プレーヤーになっていた。
クラローヴァを追い出されたエピソードは気の毒としか言いようがない。共産党からメーデーのパレードへ参加するように要請されたが、やはりペピは断っていた。プラハを離れてからは共産党との関係改善も図っていたのだが、ナチスだろうが共産党だろうが政治的に利用されるのが嫌だったのだろう。
パレードでは国の最高指導者の名が連呼されていたのだが、いつのまにか人々はペピの名をコールしはじめた。本人がその場にいないにも関わらず、拡声器で連呼される指導者の名前をかき消すように「ペピ! ペピ!」と集まった人々が騒ぎ出したのだ。共産党員にはそれが気に入らなかった。ペピに即刻退去の命令が下る。
ペピが街を離れる日、駅には地元の労働者50人が集まって押しとどめようとした。ストライキを決行するとまで言われたが、ペピは丁重に断り、クラローヴァを去って行った。ストライキなど始まれば、全員監禁されるのは目に見えていたからだ。
引退後はいくつかのクラブで監督も務めたが、共産主義政権の下で資産は没収され、1人の鉄道労働者として働いている。1989年、共産主義体制が崩壊した後、一部の資産と名誉が回復された。2001年、88歳で死去したのはクリスマスの2週間前だった。
スラビア・プラハ時代、ペピは行方不明事件を起こしている。先発メンバーから外されるという噂を信じてしまい(信じやすい人だったのだろうか)、恥ずかしくなって恋人と森の奥へ逃避して酒ばかり飲んでいたという。ところが、実際には先発メンバーに入っていて、ラジオでは連日行方不明のエースストライカーに呼びかけていたのだが、本人が気づいたのは街へ酒を買い足しに行った試合当日だった。
慌ててスタジアムに駆けつけ、ぎりぎりで間に合って試合に出るとバカスカ点をとって観衆を熱狂させた。ところが、酔っぱらっていたペピは試合のことを全然思い出せなかったという。やっぱり、かなり破格の人ではあったようだ。