これぞ、リアル・テストマッチ(国別代表戦)である。これぞ、負けたら終わりの決勝トーナメントだ。4年前の1次リーグの対戦とは違った。ラグビーワールドカップ(W杯)で、初めて8強に進んだ日本代表が、「本気」の南アフリカに力でねじ伏せられた…

 これぞ、リアル・テストマッチ(国別代表戦)である。これぞ、負けたら終わりの決勝トーナメントだ。4年前の1次リーグの対戦とは違った。ラグビーワールドカップ(W杯)で、初めて8強に進んだ日本代表が、「本気」の南アフリカに力でねじ伏せられた。ついに快進撃が止まった。



主将として日本代表を率い、ベスト8入りに貢献したリーチ マイケル

 ノーサイド。ピッチに”最後の円陣”がつくられた。ジェイミー・ジョセフHC(ヘッドコーチ)、スタッフも加わる。からだを張ったPR(プロップ)稲垣啓太が、25歳のNo.8(ナンバーエイト)姫野和樹が、ろっ骨を痛めたSO(スタンドオフ)田村優が泣いていた。

 3-26の完敗だった。東京スタジアム。満員の約4万9千人の観客で埋まったスタンドから温かい大歓声と拍手が降り注ぐ中、FL(フランカー)のリーチ マイケル主将が円陣で声を絞り出した。こう言ったそうだ。

「下を向く必要はない。胸を張ろう。みんなを家族同様に思ってきた。もう試合ができなくなるのは寂しいけれど、このチームを、キャプテンとして誇りに思っている。ひとりひとりも、誇りに思うべきだ」

 10月20日の準々決勝。W杯開幕からちょうど1カ月が経っていた。ゲームプランの基本はこれまで同様、的確なキックを絡めた素早いパスラグビーだった。SH(スクラムハーフ)の流大が説明した。

「相手を背走させて、空中でコリージョン(衝突)を起こして、カオス(混沌)をつくるつもりでした」

 でも、とため息をついた。

「セットピースを含めて、本当に相手のプレッシャーがすごくて。これまで感じたことがないくらいの一番の強さだったと思います」

 日本の躍進を支えてきたのが、安定したスクラム、ラインアウトのセットピースだった。素早く組織だったディフェンスだった。だが、先発FW(フォワード)の平均身長192cm、116kg(日本は188cm、109kg)とデカい南アの威力は凄まじかった。肝心なセットピースでやられた。

 前半序盤のファーストスクラムだった。自陣中盤の相手ボール。組み負けた。日本FWの8人のからだが少し退がる。ずるずると押し込まれ、SHファフ・デクラークにブラインドサイドを走られた。SO田村優が快足WTB(ウイング)のマカゾレ・マピンピにはじき飛ばされ、そのまま先制トライを許した。

 このスクラム。左PRの稲垣も、右PRの具智元もレフリーの指示のコールが大歓声で聞こえなかった、と振り返った。具が言った。

「あの時、”セット”のコールがまったく聞こえなくて…。組み直しかと思ったら、そのまま(レフリーに)流されて…。相手のヒットスピードがはやくて受けてしまった」

 ただ、その後、日本FWは踏ん張った。チームのキーワードとなっている『忍耐』で我慢した。世界一といわれる南アのフィジカルに塊となって対抗した。

 だが、セットプレー、ブレイクダウン(タックル後のボール争奪戦)のダメージは、ボクシングでいうところのボディブローのように足腰に蓄積されていったのだろう。後半、FWの動きが鈍った。スクラムの足の位置や姿勢などディテールが崩れた。

 3-5で前半は折り返した。日本が後半最初に得点すれば、ゲームの流れは変わったかもしれない。だが、開始直後の相手ボールのスクラムで押し込まれ、コラプシング(故意に崩す行為)の反則をとられた。PG(ペナルティーゴール)を蹴り込まれた。

 後半8分、足を痛めていた左PR稲垣が、脇腹を痛めていたSO田村とともに交代した。中盤には右PRの具もベンチに退がり、HO(フッカー)堀江翔太も代わった。前半は与えたPK(ペナルティーキック)は2つだったが、後半は6つ。うち2つがスクラムのコラプシングだった。

 稲垣は沈んだ声で振り返る。言葉には悔恨がにじんだ。

「後半のセットピースに対するディシプリン(規律)が勝敗を分けたのではないでしょうか。セットピースはもっともっと向上する必要があると感じます」

 ラインアウトも南アは高くてうまくてパワフルだった。日本の成功率は13本中8本の62%にとどまった。加えて、ラインアウトからのモール。反則を避けるため、どうしても姿勢が高くなる。後半中盤。ずるずると40mほど押し込まれ、結局はトライにつなげられた。勝敗の行方はほぼ決まった。

 それにしても、南アは日本をよく分析し、対策を立ててきた。オフサイドまがいの早めのラインディフェンス、球出しのテンポを遅らせるためのレートタックル気味の寸断、展開阻止。あるいは内側の返しの短いパスにもちゃんと反応されていた。

 結局、日本はノートライに終わった。束となった南アのディフェンスは、あたかもジャージの色であるグリーンの分厚い壁だった。ジョセフHCは「ほんとうにフィジカルなゲームだったと思います」と声を落とした。

「(日本は)たくさんのチャンスをつくった。プレッシャーを相手にかけることができた。でも、それをもの(得点)にすることができなかった。相手のディフェンスがとても強かったと思います」

 この日は奇しくも、日本ラグビーの発展に貢献した”ミスターラグビー”平尾誠二さん(2016年死去、享年53)の命日だった。台風による犠牲者への追悼もあって、日本の選手たちは腕に喪章の黒いテープをつけて戦った。

 試合後、フルバック(FB)山中亮平も泣いた。ひげの育毛剤でドーピング違反となり2年間の資格停止となった時、神戸製鋼を指揮していた平尾さんにラグビー人生を救われた。言葉に実感をこめる。

「平尾さんのところにも(試合が)届くと思って、思い切り、全力でぶつかりました。僕自身、すごく楽しんでできた。悔いはない。やり切りました」

 ところで、平尾さんと共にプレーし、平尾さんが監督となった1999年W杯で代表選手だった村田亙さんもスタジアムで故人を偲んだ。日本ラグビーは1995年W杯でのニュージーランド戦惨敗(17-145)を屈辱とし、「日本全体でやらなければ」と世界に本気で挑んだ1999年W杯だった。

 そのため、平尾さんは慣習を破り、元NZ(ニュージーランド)代表のジョセフ(現HC)ら外国選手を6人も代表に選んだ。村田さんはSHの正ポジションをW杯直前、元NZ代表のグレアム・バショップ氏に譲った。村田さんは思い出す。

「世界で勝つため、日本代表の”グローバル・スタンダード化”をいち早く取り入れたのが平尾さんだった」

 それから20年。外国出身選手は、代表31人中15人に増えた。世界に伍していくためには、フィジカルの強い外国選手の起用は必然だろう。日本ラグビー協会の代表強化は進み、時間も労力も資金も投入するようになった。妥協を許さぬエディー・ジョーンズHC(現イングランド代表HC)がチーム強化に努め、日本代表に勝つ文化を根づかせた。

 その流れを引き継いだジョセフHCがさらに心身のタフさを求め、長期合宿でハードワーク(猛練習)を積んできた。『ONE TEAM』、ひとつとなった日本は1次リーグではアイルランド、スコットランドなどの強豪を破る4戦全勝で決勝トーナメントに初めてコマを進めたのだった。

 平尾さんら多くの人々の努力、挑戦の積み重ねが初めての日本開催のW杯で結実した。新しい歴史を創った。社会的なラグビーブームも巻き起こした。

 4大会連続のW杯出場。試合後、代表引退を宣言した38歳の”トモさん”こと、ロックのトンプソン・ルークは笑いながら、「おじいちゃんロックはもう、絶対、(代表は)終わりや」と大阪弁で言った。

「いま、ラグビーはすごいブームやね。日本のラグビーはレベルアップした。みんな、勝つ文化、わかった。僕、引退。若い選手、いっぱい、いるよ」

 最後に、再び、ジョセフHC。

「収穫は、すばらしい選手が日本にはいることがわかったことだ。いいシステムを導入することができれば、選手はどんどん成長することができるだろう」

 トップリーグなど国内のラグビー環境をどう変えていくのか。プロリーグ構想も浮上している。日本ラグビーのカタチ、海外チームとのマッチメイク、国際大会への参入など日本代表の環境づくりなどが課題となる。

 W杯中、世界ランキングは最高6位まで上がった。代表のレベルの停滞は許されない。4年後、ベスト4を目指し、さらなる代表強化が始まることになる。