西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(48)【エース】ヤクルト・川崎憲次郎 後…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(48)
【エース】ヤクルト・川崎憲次郎 後編(前編の記事はこちら)

【神様・飯田哲也の「奇跡」のバックホーム】

――飯田哲也選手の「スーパープレー」が飛び出した、1993(平成5)年日本シリーズ第4戦ですが、この日の神宮球場には、ピッチャーにとっては追い風であり、バッターにとっては逆風となる強風が吹き荒れていました。「風」については、どのような対策で臨んだのですか?

川崎 当時のボールは今ほど飛ばない時代でした。そして、試合前にノムさん(野村克也監督)に呼ばれて、バックスクリーンの旗を指しながら、「おい、あの旗を見てみろ」と言われたんです。そして、「今日は逆風だ。完璧な当たりでなければ絶対に入らないから、思い切り投げろ」と言われました。それが安心材料となって、ストレートで思い切り勝負することができましたね。


1993年の日本シリーズで2勝を挙げ、MVPを獲得した川崎

 photo by Sankei Visual

――ライオンズの先発は、前年度の日本シリーズMVP・石井丈裕投手でした。相手投手に対しては、どの程度意識されるものなのですか?

川崎 この時の西武は、工藤(公康)さんもいたし、ナベキュー(渡辺久信)さんもいたし、誰が投げても一線級なわけですよ。だから、当時は「そんなに簡単に打てないだろう」と思っていたし、だからこそ「自分自身がどこまで粘り強く投げられるか?」ということを意識していましたね。この日は相手がタケ(石井丈裕)さんだったので、「2点取られたら終わりだ」と思っていました。僕の調子がよかったのは、タケさんに引っ張られた部分もあったと思います。

――この日は投手戦の様相を帯び、4回裏、池山隆寛選手の犠牲フライによる1点を守ったまま、試合終盤となりました。そして8回裏、センター・飯田哲也選手による「スーパープレー」が飛び出します。得点は1-0、場面はツーアウト一、二塁。二塁走者は代走の笘篠誠治選手。打者は鈴木健選手でした。

川崎 この場面、結局は初球を打たれるわけですけど、あまり考える間もなく、インハイにストレートを投げて甘く入ってしまった印象です。

――鈴木健選手が放った打球はセンター前へのクリーンヒットとなり、二塁走者・笘篠選手は勢いよくスタートを切って、三塁の伊原春樹コーチも右手を大きく回していました。

川崎 打たれた瞬間にホームベースのカバーに行くので、飯田さんがどんな態勢で捕球したのか、送球したのかは見ていませんでした。でも、セカンドランナーの笘篠さんがサードを回ったときには「もうダメだ。絶対セーフだ」と思っていましたよ。でも、結果はアウト。あのタイミングでアウトにできるなんて、飯田さんは神です(笑)。もう信じられないプレー。僕の中では、今でも「奇跡」としか思えないスーパーバックホームです。

【突然決まった、第7戦の先発】

――飯田さんのスーパープレーによって、第4戦を1-0で勝利したスワローズは3勝1敗と王手をかけたものの、ライオンズが粘って3勝3敗と逆王手をかけます。雌雄を決する第7戦の先発マウンドを託されたのが、川崎さんでした。

川崎 もともと、第7戦の先発は初戦で勝ち投手になっていた荒木(大輔)さんの予定だったんです。だから、「スクランブル登板に備えよう」という思いはあったけど、「たぶん、自分の出番はないな」と思っていました。でも、雨天順延になりましたよね?

――確かに、10月30日に予定されていた第6戦が雨天順延となりましたね。野村監督は、これを「恵みの雨だった」と言っていました。なぜなら、「これで川崎を中4日で使えるから」とのことでした。

川崎 雨天中止が決まった時に、第7戦の先発を告げられました。そもそも登板予定だった荒木さんは、「荒木さんが投げれば負けない」っていうピッチャーだったんですよね。でも、実績の劣る僕が指名された。「まさか自分が……」という思いだったことは覚えています。2月1日のキャンプ初日から、「リーグ連覇だ。日本一だ」と目標にしてきた最後の最後で、オレですよ。ものすごいプレッシャーでしたよ。

――プレッシャーを感じながらの第7戦。いきなり1回表に広沢克己(現・広澤克実)選手の先制3ランホームランが飛び出しました。これは素直にうれしいものなのですか、それとも逆にプレッシャーとなるものなのですか?

川崎 プレッシャーですね。初回に大量点をもらうと、どうしても守りに入ってしまうんですよ。それで、いきなり先頭の辻(発彦)さんにフォアボールを与えてしまいましたから(笑)。


映像を見ながら当時を振り返る川崎氏

 photo by Hasegawa Shoichi

――そして、ツーアウト二塁の場面で、四番・清原和博選手を迎えました。

川崎 インコースには投げ切ったんですけど、清原さんはインローがすごく強いし、絶対に投げちゃいけないところに投げてしまったんですよ。結果的に2ランホームランとなってしまったけど、逆に打たれてようやく落ち着いた部分も、正直ありましたね。

――第4戦の先発では「緊張しなかった」とおっしゃっていましたが、やはりこの第7戦は緊張の極致にあったんですね。

川崎 試合前にノムさん(野村克也監督)に呼ばれたんですよ。「お前、緊張してんのか?」って聞かれたので、「はい」って言ったら、「結果は気にするな、自分のピッチングをしてこい」って言われて少しは落ち着いたけど、やっぱり緊張はありました。でも、3-0のまま試合が続くよりは、3-2で、1点しかリードがない状態の方が、いい緊張感を持続できた気がします。初回の2失点は余計だったのかもしれないけど、2回以降は、逆に落ち着いて投げられました。

【「あの強かった西武」をついに超えた瞬間】

――ライオンズ先発の渡辺久信投手、そしてスワローズ先発の川崎さんは、ともに初回にホームランで失点を喫したものの、その後は両軍とも点が奪えないまま、試合は終盤に突入しました。

川崎 9回には高津っちゃん(高津臣吾)がいるので、「とにかく8回までは投げ切ろう」と考えていました。本当に信頼できる守護神が後ろに控えているのは心強かったです。この年の高津っちゃんは、本当に打たれなかったですからね。

――そして、8回表に古田敦也選手のギャンブルスタートが見事に成功。待望の追加点を奪って、4-2でついにスワローズが日本一に輝きました。

川崎 日本一の瞬間は、チームが優勝した、自分もきちんと試合を作れた、その安心感だけでしたね。だって、あの強かった西武を倒したんですよ。もう、そのうれしさでいっぱいでした。

――今、お話しされたように「あの強かった西武」を相手に、1992年、1993年と、2年連続で死闘を演じました。2年間の対戦成績はともに4勝3敗同士、全14試合で7勝7敗でした。両チームの決着は着いたのでしょうか?

川崎 1993年に日本一になった瞬間には、「西武を超えた」と感じましたね。この2年間は、僕にとって、悔しいことと嬉しいことと、その山が激しすぎました。1992年のケガでドンッと下に突き落とされ、翌年にグンッと一番上まで上がっちゃった。2年連続でリーグ制覇するのも確率的にはメチャクチャ低いのに、2年連続で同じカードになって、西武を倒すことができた。シリーズでMVPももらいましたし、アップダウンが激しすぎる2年間でしたね。25年以上も経って、今もこうして取材を受けているというのも、信じられないですし。

――その後、1997年にもスワローズとライオンズによる日本シリーズが行なわれました。これは、1992年、1993年のシリーズとはまた違う感覚のものなのでしょうか?

川崎 日本シリーズという大舞台を経験することは、すごく大切なんです。1993年に日本一になったことで、ヤクルトは1995年、1997年、2001年と日本一になりますけど、一度、大きな山を越えてしまったら、あとはすごく自信になるんです。実際、1995年以降は負ける気がしなかったですからね。一度チームが成熟すると、ベンチの指示がなくても、選手同士で動けるようになるんです。やっぱり、場数を踏むっていうことは大切なんですよ。