PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第10回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2000年9月24日のシドニー五輪女子マラソンで高橋尚子が達成した、日本女子陸上史上初の金メダル獲得。それは「勝つべき選手が順当に勝った」レースだった。

 というのも、1998年12月の、タイ・バンコクで開催されたアジア大会で、高橋が見せた快走があまりにも強烈だったからだ。



シドニー五輪女子マラソンで金メダルを勝ち取った、高橋尚子

 このアジア大会のレースは、高橋が全日本実業団女子駅伝で最長11.6㎞の5区を走って、2位に53秒差をつける区間新を出した1週間後だった。気温30度以上で湿度90%前後という悪条件。

 それにもかかわらず、高橋は気温の低い場所で行なわれる冬場のマラソンを上回る16分37秒、16分26秒、16分13秒、16分22秒というハイペースで突っ込んだ。中間点通過は、98年ロッテルダムマラソンでテグラ・ロルーペ(ケニア)が出した当時の世界記録の通過タイムを56秒も上回る、1時間9分15秒という驚異的なタイムだった。

 35km過ぎからはペースを落としたが、それまでの日本記録を4分01秒も更新する2時間21分47秒。アジア最高、世界歴代5位の記録をたたき出したのだ。その後、高橋は、00年3月の名古屋国際女子マラソンを大会記録の2時間22分19秒で制して代表に選ばれた。

 迎えたシドニー五輪。高橋のライバルは、ロルーペと、1月の大阪国際マラソンを2時間22分54秒で制して大会3連覇を果たした、リディア・シモン(ルーマニア)と目されていた。

 コースは、最初に1km強の急な下りがあり、後半の26㎞以降には勾配のきついアップダウンが連続する難コースだ。序盤は、マルレーン・レンデルス(ベルギー)がスタート直後に飛び出して、最初の5㎞を16分42秒で入った。一方、小出義雄監督に「17kmまでは体を温めるつもりでゆっくり行け」と指示されていた高橋は動かず、38人の大集団のなか、17分00秒で通過した。

 ペースを少し上げた先頭集団は、12km手前でレンデルスを吸収。15kmでは22人に絞られた。ロルーペは10km過ぎですでに脱落しており、予想外の展開だった。そんななかで、高橋が最初の動きを見せたのは18km付近だった。

 この仕掛けで集団は一気に崩れ、20km通過でついてきたのはシモンと市橋、エスタ・ワンジル(ケニア)の3人。ワンジルは、中間点前で遅れ、高橋、シモン、市橋の3人で中間地点を通過した。高橋はそのまま25kmまでのラップタイムを16分38秒で走り、後続との差を広げてメダル獲得への可能性を高くした。

 レース前半は「あっという間に過ぎてしまった感じだった」と高橋は言う。

「じつは、15kmと20kmの給水を取り忘れてしまったんです。コースはぜんぶ頭の中に入っていて、15kmがどこだかわかっていたんですが、感覚的にはすごく楽で『ジョグだな』という感じで走っていたので、『まだ13kmくらいかな』と思っていました。

 他の選手の動きで給水所になったと気がついた時には、自分のドリンクが置いてあるテーブルをすでに通り過ぎていたんです。20kmの給水も、18kmで前に出てからずっとブルーラインだけを見て走っていて、『そろそろ20kmかな』と思ったら、もう中間点になっていた。それからは、飲みたくなくても取っておこうと慎重になりました」

 笑いながらそう振り返る高橋は、レース当日は7時半まで寝ていようと決めていたところ、6時に起きてしまった。そうすると走りたくてたまらなくなり、結局走ってしまったという。

「なぜか緊張もしなかったし、気持ちもそれほど盛り上がってこなかったんです。レース直前も、プレッシャーというより、『来た。ようやく来たぞ!』という感じで、走れることがただうれしかった。

 前年の世界選手権は初出場だったので、『勝たなきゃ。世界で記録も順位も出さなきゃ』と思っていましたが、結局出場できず、走れなかった。その棄権がいちばん苦しくて衝撃的な出来事でした。それがあったので、今回は、自分でちょっとでも順位や記録のことを考えてしまった時に、そんなことよりも、自分が今までやってきたことを試すだけだ。結果がどうであれ、終わった後で一緒に走った選手たちと『私、一生懸命走ったよ』『みんなも一生懸命走ったから楽しかったね』と言い合えるレースをしたいなと思っていたんです」

 ただ純粋に、五輪という場で走りを楽しみたい、という気持ち。それは27km過ぎからのアンザック橋に向かう急な上りで市橋が遅れたあと、シモンとのマッチレースになってからも変わらなかった。

「最終的には自分が前に出たいとは思っていたけど、31~32kmの下りはふたりで風に乗って走っているみたいで気持ちよくて、『決着をつけなくてはいけないけど、このままずっとふたりで走り続けたいな』という気分でした」

 他の選手が苦しんだ後半のアップダウンも、高橋は自信を持っていた。

「ボルダーでやった最後の40km走とラスト8kmが似たようなコースだったんです。かなり追い込んだ練習で、ラスト8kmは思い切り飛ばして最後まで持ったのだから、絶対に大丈夫だと思っていました」

 むしろ、「あのアップダウンが早く来ないかな」と待ち遠しく思っていたほどだったという。それくらい、高橋はリラックスできていたのだ。35km手前からシモンを離し始めた時も、そのキッカケは些細なことで、スパートの意識はとくになかったという。

「30kmくらいからサングラスを外したかったけど捨てるわけにはいかないので、沿道に知り合いがいないかとずっとキョロキョロ探していたら、父が35km手前にいたんです。でも、そのまま投げるとシモンさんに当たってしまう。だから、少し前に出て投げたんです。そうしたらシモンさんがついてこない。どうしたのかな、とも思ったけど、『離れたんだったら行っちゃおう』という感じで行きました」

 35km通過で2秒だった差は、40kmでは28秒に開き、高橋は優勝を確実にした。

 だが、ラスト3kmはきつかった。最後は、何度も後ろを振り向いた。

「あんなに後ろを振り向いたのは初めてでした。でも、早く楽になりたかったので、誰も見えなければペースを落とそうと思っていたんです。40km地点で見えなかったので『よーし、落とすぞ』と思って落としたけど、最後に競技場へ入ってラスト200mで電光掲示板の映像を見たら、シモンさんが真後ろに迫っていました。もう脚が出なかったのですごく焦ったけど、そこからは死に物狂いで『逃げなきゃ、逃げなきゃ』と、祈るような気持ちで走っていました」

 ラスト2.195kmは7分55秒と失速した高橋だが、シモンの追撃を8秒差で振り切って優勝した。2時間23分14秒の五輪新記録で、シドニーの街を軽やかに走り抜けた。

 スタートからゴールまで、どこに行っても『高橋、高橋』という声が聞こえていた。ラスト3km以外はうれしい気持ちで走れたが、ゴールした瞬間は「これで逃げ切れた」という安堵感とともに、「あぁ、終わっちゃったんだな」という寂しい気持ちにもなった。だが、ウイニングランで知り合いの顔を見つけると、「あの人も来てくれたんだ、この人も来てくれたんだ。すごいな、すごいな」と感動し、「自分がメダルを獲ったこと以上にうれしくなった」と笑う。

 小出監督からは「17kmから余裕があれば、勝っても負けても正々堂々と、思い切った自分のレースをしてこい」と言われていた。高橋はその言葉どおりに18kmからレースを支配し、先頭を突っ走り続けて勝ち切る強さを見せつけた。その1年後、ベルリンマラソンでは、女子で初めて2時間20分を突破する2時間19分46秒の当時世界最高記録を出した。高橋尚子は、「女子マラソン・新時代」の開拓者でもあったのだ。