スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第4回サッカーのスーパースターの中には、その才能をいかんなく発揮しながら、タイト…

スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第4回

サッカーのスーパースターの中には、その才能をいかんなく発揮しながら、タイトルに恵まれなかった悲運の選手たちがいる。サッカースターやレジェンドプレーヤーの逸話をつなぎながら、その背景にある技術、戦術、社会、文化を探っていく連載。第4回は日本でもファンの多かった、あのイタリア人プレーヤーだ。

◆ ◆ ◆

ポニーテールとPK

「思いついたプレーの中で最も難しいものを選択する」

 ロベルト・バッジョはギュンター・ネッツァーと同じことを言っている。どちらも「悲運の天才」というイメージだ。



1994年のアメリカワールドカップでプレーしたバッジョ

 1994年アメリカワールドカップはバッジョの大会になるはずだった。

 筆者は偶然にもイタリアのすべての試合を見たが、前半戦のバッジョはまさに悲運のエースである。初戦のアイルランド戦はジュゼッペ・シニョーリと2トップを組んだが機能せず、0-1の黒星スタート。次のノルウェー戦はGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となったことで途中交代。1-0で勝利したが、絶対的エースだったバッジョを引っ込めたアリゴ・サッキ監督の采配は物議を醸した。

 10人で戦わなければならない局面で、FWを下げるのは常識的な判断であり、この時のバッジョはアキレス腱を痛めていた事情もある。それでもバッジョを下げたのは多くのファンにとってショックだった。

 最後のメキシコ戦は1-1。この結果、グループEは4チームがすべて勝ち点4で並ぶ異常事態となったが、イタリアは総得点の差で決勝ラウンドに進出できた。キャプテンのフランコ・バレージを負傷で失い、エースのバッジョは何も貢献できないまま。業を煮やしたイタリアの世論はジャンフランコ・ゾラをバッジョの代わりに起用すべきとの声を挙げていた。

 イタリアは、ラウンド16ではナイジェリアと対戦。1点を先行され、切り札として投入されたそのゾラは、いきなり一発退場となってしまう。勝利を確信したナイジェリアは、彼らの身体能力とボールテクニックの優位性を誇示しはじめる。イタリアの命運も尽きたかと思われた88分、バッジョが起死回生の同点ゴールを決めた。数々の美しいゴールを決めたバッジョからすると地味な得点だった。しかし、この1点が結果的にそれまでアズーリを覆っていた暗雲を吹き飛ばしている。

 延長に入ると、1人少ないイタリアが主導権を握っていた。ゆっくりとパスをつなぎ、じりじりとナイジェリアのゴールを包囲する。激しい打ち合いに持ち込まれたら11人のナイジェリアが有利なのは自明だった。ある意味、壮大なブラフである。それまで余裕を失っていたイタリアが、初めて見せた彼ららしい老獪な顔だった。

 勝ったと思っていたナイジェリアはショックから立ち直れず、イタリアの真綿で首を絞めるような攻撃に苛まれた。そして、バッジョのひょいと浮かしたパスからイタリアがPKを獲得。これをバッジョが冷静に決めて勝利をたぐり寄せた。

 ここからはバッジョの独壇場になる。準々決勝のスペイン戦ではローアングルショットの決勝点で2-1、準決勝のブルガリアも21、25分の連続得点で2-1。ノックアウトステージに入ってからのイタリアの6得点中5ゴールがバッジョだった。

 ナイジェリア戦以降のバッジョは絶対的なオーラを纏っている。打てば入る、記者席からもそう見えた。グループリーグも含め、イタリアは勝った試合でもすべて1点差だった。しかし、バッジョとともに蘇ってからは、揺るぎない安定感を醸し出している。

 しっかり守っていれば負けない、そのうちにバッジョが必要なゴールをもたらしてくれる。イタリアにとっては伝統的な、戦いやすい形になっていた。サッキ監督の革新的なゾーンシステムではなく、受け継がれてきた血がイタリアを押し上げていた。

 ブラジルとの決勝は、バッジョ対ロマーリオになるはずだった。だが、どちらもそれまでの試合が嘘のように精彩を欠き、0-0のまま120分間を終えている。バッジョは負傷に苦しんでいて、名手マウロ・シルバと鉄壁のDF陣に抑えられた。ロマーリオも大会中に手術を終えて戻ってきたバレージの好守に行く手を遮られている。

 PK戦は一番手のバレージとマルシオ・サントスがどちらも失敗。イタリアは続くデメトリオ・アルベルティーニとアルベリゴ・エバニが決めたが、4番目のダニエレ・マッサーロが失敗する。一方ブラジルは、ロマーリオ、ブランコ、ドゥンガが決めた。そしてイタリアは最後にバッジョが失敗して優勝を逃してしまった。ここまでチームを牽引したバッジョ、決勝に間に合わせて神がかったプレーを見せたバレージ。2人の英雄が枠を外す悲劇的な結末だった。

「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」(バッジョ)

 一時の絶体絶命から底を打って復活したイタリア。英雄を待っていたのは悲運だったが、最後まで昂然と頭を上げた勇者でもあった。

運命に屈せず

 類を見ない精緻なボールタッチは天賦のものだ。174センチと小柄な部類だが、近くで見ると太モモが異様に太く、力強い。爆発的なスピードとアジリティを支えた強靱な筋肉。よく見ると、右ヒザには大きな傷跡が長く走っている。ビチェンツァからフィオレンティーナへ移籍した2日後に十字靱帯を断裂していた。

 バッジョのキャリアは常に悲運との戦いで、ギリシャ神話の英雄やシェイクスピア戯曲の主人公のようだ。だが、運命に弄ばれても決してギブアップしなかった。

 重傷からの回復を辛抱強く待ってくれたフィオレンティーナから、ユベントスへ移籍した時には暴動騒ぎになっている。当時はクラブ間の合意だけで移籍が決まっていたので、バッジョにはどうすることもできなかったが、ユベントス移籍後の最初のフィオレンティーナ戦ではアルテミオ・フランキを揺るがす大ブーイングを浴びた。

 それが収まったのはバッジョがPKを蹴るのを拒否した時だ。ユーベは即座にバッジョを交代させたが、代わりに蹴ったルイジ・デ・アゴスティーニは失敗。試合も落としたことで、ユーベのファンの間でバッジョの態度は問題視された。しかも、「自分の心は紫(フィオレンティーナの色)だ」とバッジョは正直に心情を話している。この一件から、ユベントスで信頼を勝ち得るまで2シーズンを要した。

 バッジョは名監督の下でプレーしている。ユベントスではジョバンニ・トラパットーニ、マルチェロ・リッピ、その後はミランでファビオ・カペッロ、オスカル・タバレス、アリゴ・サッキ、インテルで再びリッピ。そしていずれとも衝突した。ミランからパルマへ移籍が決まりかけた時の監督はカルロ・アンチェロッティだったが、彼もまたバッジョとは相容れず移籍は破談になっている。起用方法に関して対立していた。

「ダメだ。君はストライカーとしてプレーしなさいと言ったら、バッジョは他のクラブに行ってしまった。ボローニャで22点も取ったよ。22点も失ったのだから、あれは最大のミステークだったね」(アンチェロッティ)

 プレッシング全盛の時代だった。名監督たちは、バッジョが90分間プレーできないと判断した。あるいはセカンドトップとしてのポジションを与えられない、他の同じタイプと共存できないと考えた。バッジョは監督の方針に賛同できず、ベンチに置かれたり物別れになって移籍を繰り返した。ただ、試合に出れば重要なゴールを決めている。

 東洋的な細長い眼は、後のジネディーヌ・ジダンとよく似ている。静かで思慮深く、あまり感情を表に出さないが、芯のところは恐ろしく強固だった。

 ボローニャやブレシアで不死鳥のごとく蘇り、ファンタジスタとしての名声を不動にしている。1998年フランスワールドカップ、チリ戦でPKを得たプレーを覚えている。チリのDFが不用意に広げていた手にバッジョの蹴ったボールが当たってPKになった。狙って当てたに違いない。ここぞという瞬間に、背筋が寒くなるほどの冷静さをいつも発揮していた。

 準々決勝では優勝するフランスにPK戦で敗れたが、あわやのシュートを放っていた。この大会で英雄になるジダンとバッジョはよく似ているが、バッジョは産まれたのが少し早かったのだろう。ともに時代錯誤のボールアーティストだったが、ジダンは一周回って新しくなっていた。プレッシングに引導を渡す存在として。

 人は運命には逆らえない。ただ、運命と戦い抜く人生は美しい。バッジョは悲運だったかもしれないがそれに屈せず、だからこそより美しかったのかもしれない。