【陸上短距離 レジェンドインタビュー】
末續慎吾 前編

 末續慎吾が世界陸上で快挙を達成したのは2003年のこと。パリ大会200mで、日本短距離界で初となる世界大会でのメダル(銅メダル)を獲得した。

 同年には100mで10秒03を、200mで今も日本記録である20秒03を記録。2008年の北京五輪では、4×100mの第2走を担って銅メダル(優勝したジャマイカチームが失格となり、2018年に銀メダルに繰り上げ)に貢献した。

 しかし、そんな華々しいキャリアの裏では、トップアスリートゆえのさまざまな苦悩があった。39歳になった現在も現役を続ける末續が、自身の陸上人生、今後について語った。




日本を代表するスプリンターとして活躍し、現在も現役を続ける末續慎吾

――末續さんが初めて五輪出場を果たしたのは、2000年シドニー五輪でした。東海大学の2年生でしたが、当時を振り返っていただけますか?

「大学1年の時に父が亡くなったため、深夜までアルバイトをしながら、頑張って結果を出すことによって陸上を続けることができました。その頃のモチベーションは高かったですし、僕の陸上人生の基礎になったと思います。大学では、高野進先生が競技以外の部分でサポートしてくれたのも、すごくありがたかったですね」

――同大会の4×100mリレーでは、第3走を担い6位になりました。

「20歳の僕が一番若くて、朝原(宣治)さんは試合から遠のいていましたし、伊東(浩司)さんはケガ明けで無理をしていました。山崎(一彦)さんと苅部(俊二)さんもボロボロになった体に鞭を打って走っていましたね。そんな先輩方の姿を見て、『日本代表としての責任を果たさなければならない』と思いました。みんなの体の状態がよくなかったので、バトンの練習はほとんどできませんでしたが」

――その3年後、2003年の世界陸上パリ大会の200mで、見事に銅メダルを獲得しましたね。

「決勝まで進むと4レースを走ることになるのですが、その経験は初めてだったので、二次予選から気合いを入れて走ってしまい、すごく体力を消耗しました。当時の僕には、”日本人が決勝に進む”という、常識を覆す精神的なエネルギーも備わっていなかった。それでも、練習量が多かったおかげで3位になれたのかなと思います。

 メダルを手にして感じたのは、ヨーロッパではアスリートに対するリスペクトが日本の比ではないということ。それまで、アジア人が短距離で活躍するのを見たことがなかったため、衝撃を受けて喜んでいましたよ。ヨーロッパ諸国では、歴史的な快挙を成し遂げる力、精神がより尊重されているのを実感しました」

――2度目の五輪、2004年のアテネ五輪はいかがでしたか?

「世界陸上の銅メダル以上の成績を求められましたが、200mには出場しませんでした。当時は『100mに専念する』と宣言していたんですけど、実際は、あまりにも荷が重くて背負うことができなかったんです。戦えない姿を周囲に見られることが嫌で、その後もけっこう引きずりました。人生で初めて逃げた瞬間でしたが、競技者として自分を保つために”防衛”していたのかなとも思います。

(アテネ五輪本番は)ケガで靴も履けないほどの痛みがあったので、痛み止めの注射 を何発も打ちました。そもそも走れる状態ではなかったんですが、痛みに耐えながら出場する先輩方を見てきたので、僕も無理をして走りました。だから、痛い記憶しかないんですよ。リレーで4位となりましたが、『惜しい』というより、ただ『走れてよかった』という思いでしたね」

――翌年の、フィンランドのヘルシンキで行なわれた世界陸上で、200mに復帰した理由は?

「やっぱり、立ち直ろうと思ったんじゃないですかね。でも、一度200mから逃げてしまったので、なかなかコンディションが戻らなくて空回りしていた。競技に取り組む存在価値を求めながら無茶をしていたので、またケガもしました」

――それでも、2006年のワールドカップ(アテネ)では、4×100mリレーと200mで3位という成績を収めました。

「その時から2008年に入る頃までが、もっとも自由に走ることができた時期だと思います。ケガも続いていたので練習量を減らし、必要最低限のことをやっただけ。この時に、『こういうふうに走りたい人間なんだな』と、気づくことができました。その頃は、100mの9秒台と、200mの19秒台を期待されるのは僕しかいなかったんですが、一時的に緩和された時期でした」

――2008年の北京五輪にはどうつながっていくのでしょうか。

「2007年の大阪での世界陸上は、大会が国内ということでモチベーションが高かったですね。だた、20歳の頃から国際舞台で走り続け、ケガを押して無理してやっていたので、『来年(2008年)まで体が持つかな?』と思うようにもなりました。走る気力と体力がない状態でしたから、北京五輪の前には、代表のコーチ陣に『ちょっと休みたい』と意思表示をしていたのですが、『君がいないとダメだ』と言われたので、『仕方ない』と。五輪を辞退することで”ひとり”になってしまってもいいから、『やめる』と言えばよかったかなと、後に思いました」

――そのような状態で、2008年北京五輪を戦ったのですね。

「大会2週間前にケガをして状態はよくなかったんですが、周囲は僕のことを『何かとんでもないことをやってしまった人間だ』と思って期待している。僕自身も何かしらの可能性を感じていて、その期待だけを胸に戦いました。今思えば走ることは無理だったんですが、病気というか、狂気の状態でしたね」



当時を振り返る末續氏

――それでもリレーでは銅メダル、後に繰り上がっての銀メダルを獲得するわけですが、末續さんの東海大学の後輩でもある、第1走の塚原直貴さんはどんな選手でしたか?

「彼は、自分の決めたことに対して一直線に進む”一本気”な人間ですね。僕と一緒にトレーニングをして、メキメキ力をつけていきました。その中で、僕の本当の思いが伝わらないこともあったし、僕のいい部分だけじゃなく、悪い部分が伝わってしまったこともありました。彼は僕を尊敬してくれていましたが、僕を『超えたい』と思っている選手に対して、どういった言葉をかければいいのかを考える時期もありましたね」

――第2走の末續さんと、第3走の高平慎士さんとのバトンパスは見事で、アンカーの朝原さんにいい流れをつなぎましたね。

「高平くんは常に冷静に状況判断をする選手でした。僕はわりと何でも真正面から受け止めてしまうんですけど、彼はダイレクトにはストレスを受けずにバランスを取っていた。難しい状況になっても飄々(ひょうひょう)としていましたし、リレー走者としての相性はよかったかもしれない。お互いにコントロールしやすいところもあったと思います。

 アンカーの朝原さんとは、2000年からずっと一緒に走ってきました。朝原さんはマイペースを貫いていましたから、バトンをもらって渡すことを考えなくちゃいけない第2走と第3走より、バトンをもらってゴールまで駆け抜けるアンカーに向いていたのかなと思います」

――レース後の心境はいかがでしたか?

「僕はそこまでうれしくはなかったです。当時の心境はそれどころではなく、早く日本に帰りたかったですから。世の中の人たちが考えているような華やかなものではなかったですよ」

――現在も現役を続けていますが、トレーニングの量や質は変化しましたか?

「僕のイメージは、練習の量が60パーセント、質が40パーセントの割合でしょうか。本来は質が高いほうがいいみたいですけど。23歳か24歳の頃から練習量が減って、質の部分が高まっていきましたね。今思えば、海外のさまざまな技術、情報をもっと取り入れてもよかったのかなと思います」

――末續さんといえば、「ナンバ走り」が話題となりましたが。

「僕ならではの走り方を追求しているときに、練習でナンバ走りっぽいことをやり、『使えるかもしれない』と思って始めたんです。日本古来の技術を取り入れること、日本人に合った方法を取り入れることを考えていましたからね。ナンバ走りは身につけていないですし、まだ試行錯誤中なんですが、フレーズがキャッチーなのでひとり歩きしていた時がありましたね」

――今後の展望について、どのように考えていますか?

「僕が運営する『EAGLERUN』というプロジェクトでは、陸上をチャンピオンスポーツとして捉えて、あらゆる表現の方法を追求したいと考えています。僕が指導した子供たちが世界で戦う。僕自身が生涯スポーツとしてマスターズに出場して走る。そういったことを目的としたコミュニティーを作り、みんなで走っていきたいです」

――末續さんにとって陸上とは?

「芸術ですかね。陸上は答えのない世界なんですが、僕は『なぜ、今走っているのですか?』といった疑問を持たれることに意味があると思っています。たとえば、世の中に出して「ふーん」と何も感じられないものを芸術だとは思いません。走ることで「なんで?」と興味を持たれるように、陸上を芸術として追求していくことを、『EAGLERUN』の活動を通してやっていきたいと思っています」

(後編につづく)

■プロフィール 末續慎吾(すえつぐ・しんご)
 1980年6月2日、熊本県生まれ。200m日本記録保持者(20秒03)。2003年世界陸上パリ大会200mで銅メダル、2008年北京五輪4×100mリレーで銀メダルを獲得。現在も現役の選手としてレースに出場する傍ら、神奈川県平塚市を拠点にした陸上クラブ「EAGLERUN」で主宰を務める。

取材協力:Café&Meal MUJIラスカ平塚