西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(36)【背番号1】ヤクルト・池山隆寛 後…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(36)
【背番号1】ヤクルト・池山隆寛 後編
(前編はこちら>>)
【1993年も西武相手だったから、チームがひとつにまとまった】
――1992(平成4)年に続いて、翌1993年の日本シリーズもスワローズとライオンズの激突となりました。この年は「打倒ライオンズ」の意識がチームにあったのでしょうか?
池山 前回も言ったけど、1993年のユマキャンプは、いちなり走塁練習からスタートしました。もちろん、前年のシリーズ第7戦の広沢(克己/現・広澤克実)さんのスライディングの一件があったからです。野村(克也)監督のキャンプでの第一声も、あのスライディングについてでした。中日とのデッドヒートを制して1993年もセ・リーグ優勝を果たして、パ・リーグの相手が西武だと決まった時は、「西武でよかった」という思いはありましたね。相手が西武になったことで、チームがひとつにまとまった気がします。
1993年のヤクルト日本一の祝勝会で、野村監督(右)にビールをかける池山(左)photo by Sankei Visual
――前回の話にも出ましたが、池山さんはこの頃になると、やみくもにフルスイングをするのではなく、状況やカウントに応じて足を高く上げずにコンパクトなスイングを心がける「ニューブンブン丸」になっていました。それを象徴する場面があった、1993年の第4戦について伺います。
池山 1-0で勝った試合ですね。川崎(憲次郎)が気迫のピッチングを見せた試合だ。
――そうです。0-0の同点で迎えた4回裏スワローズの攻撃。ワンアウト満塁のチャンスで打席に入ったのが池山さんでした。前回話していた「ノーステップで打った」というのは、まさにこの場面のことですね?
池山 そうそう、この場面はノーステップで打ちました。「絶対に打ちたい!」という思いは当然あるんだけど、「ゲッツーだけは絶対に打ってはダメだ」という思いもありました。今思えば、ここまでずっと野村(克也)さんに「野球はひとりでするものじゃない」とか、「三振を減らせばその分、打率は上がるんだ」と言われ続けていたことが、ようやく理解できるようになっていたんだと思います。
――その場面の映像があります。当時の心境をあらためて教えてください。
池山(映像を見ながら)ほら、見てください。打席に入った時点ですでにバットを短く持っていますよね。僕は本来なら、グリップエンドいっぱいにバットを持っていたのに、この場面では最初からバットを短く持っています。最初から犠牲フライを狙う打ち方ですよね。
――ヒットではなく、最初から犠牲フライを狙っていたんですね。
池山 そうだったと思います。だから、バットを短く持って、ノーステップで逆方向を狙ったんだと思いますよ。
【狙って打った逆方向への犠牲フライ】

当時を振り返る池山氏
――「逆方向のライトに打とう」と、打球方向まで事前に決めていたんですか?
池山 野村さんの教えの中に、「狙い球10カ条」という打撃論があって、その中に「逆方向のフライは意外と伸びる」というものがあるんです。それで、最初からライトに犠牲フライを打とうと決めていたんだと思います。
――この場面について、ライオンズ・森祇晶監督は「池山のこのバッティングを見て、野村野球が完全に選手に浸透したんだと感じた」と語っていました。
池山 相手の監督に褒められるというのは、イヤな気はしないですね(笑)。前年の悔しさもあったから、自然と「犠牲フライを打とう」と考えられたんだと思いますね。やっぱり、1992年の敗北がヤクルトを強くしたんだと思いますよ。
――1993年のシリーズで、ほかに印象に残っている場面はありますか?
池山 ハッキリとは覚えていないけど、この年の日本シリーズでは、辻(発彦)さんのセンターに抜けそうな打球を(ショートの守備で)ことごとくアウトにしたことは覚えています。この年の辻さんはたぶん、センター前ヒットはなかったんじゃないかな?
――記録を見ると、1993年の辻さんのセンター前ヒットは1本、ショートゴロは2つありますね。
池山 たぶん、辻さんは「抜けた!」と思っていたと思うんだけど、この年は打球傾向のデータに基づいて、三歩ぐらいセンター寄りに守っていたんです。三遊間が広くなる代わりに、二遊間を狭めました。その結果、ヒット性の当たりを何本か捕ってアウトにした記憶があります。あんまり言われないけど、こう見えても守備はうまかったんだから(笑)。
――1993年は4勝3敗でライオンズを撃破。ついに悲願の日本一に輝きました。これは高津臣吾さんから聞いたのですが、西武球場から都内の祝勝会場に向かうバスの中で、池山さんと広沢さんが大はしゃぎしていたそうですね(笑)。
池山 あぁ、ふたりで騒ぎましたね。高速を降りて、青梅街道だったかな。バスの窓を開けて「みなさん、ありがとうございます! ヤクルトはついに日本一になりました!」って、勝手にお礼を言ったり、沿道に手を振ったりしながら都内に戻りました(笑)。
【それでも、西武のほうが実力は上だった】
――みなさんに質問しているのですが、この2年間の両チームの戦いは、ともに7勝7敗で日本一には一度ずつ輝いています。両チームの決着は着いたのでしょうか? スワローズもライオンズも互角だったのでしょうか?
池山 ……互角っていうことはないよね。西武のほうがずっと上だったと思いますよ。1992年は西武にまったく追いつけずに敗れてしまった。でも、1993年は何とか西武に勝つことができた。それは、力をつけつつあるヤクルトナインがひとつになって掴んだ勝利。でも、だからと言って「西武に追いついた」とは全然思いませんね。
――その少し先の話になりますが、1997年の日本シリーズは野村監督率いるスワローズと、東尾修監督率いるライオンズとの戦いとなり、スワローズが4勝1敗で圧勝しました。この結果はどう受け止めていますか?
池山 この時の西武は森さんの時代とはまったく別のチームでしたからね。石毛(宏典)さんも、秋山(幸二)さんも、清原(和博)もすでにチームを離れて、若い選手が中心のチームになっていましたから。だけど、この時も「西武に追いついた」とは思わなかったですね。むしろ、「西武が落ちてきた」という印象のほうが強かったかな?
――あらためて、この2年間を振り返っていただけますか?
池山 僕にとっては(1992年が)初めての日本シリーズで、2年とも主力として戦うことができたシリーズでもありました。それ以前は、野村監督の就任によって自分のバッティングスタイルについて迷ったり、悩んだりしたこともあったけど、「優勝」「日本一」という結果によってそれも吹っ切れました。
自分ひとりでは決して「優勝」「日本一」という称号は得られなかったと実感したし、本当に成長できた2年間でした。広沢さんしかり、古田(敦也)しかり、もちろん僕も、それぞれ波乱万丈でいろいろ苦労しながらつかんだ日本一でしたから。やっぱり、日本一の瞬間で、すべてが報われるんです。
――1992年の敗戦があればこそ、翌1993年の栄光の重みも変わってくるんでしょうね。
池山 同じチームを相手に、2年続けて第7戦までもつれこんだんだから、究極のシリーズだったと思いますよ。勝利の女神がどっちに微笑むのか? 野球の魅力がたっぷり詰まった2年間でしたよね。だからこうして、今でも語られることが多いんだと思います。
(つづく)