向正面から世界が見える~大相撲・外国人力士物語第3回:鶴竜(2) 白熱した戦いが続いている大相撲秋場所(9月場所)。先場所の名古屋場所(7月場所)で賜杯を抱いた横綱・鶴竜も、2場所連続優勝に向けて奮闘中だ。2001年、16歳の時にモンゴ…

向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第3回:鶴竜(2)

 白熱した戦いが続いている大相撲秋場所(9月場所)。先場所の名古屋場所(7月場所)で賜杯を抱いた横綱・鶴竜も、2場所連続優勝に向けて奮闘中だ。2001年、16歳の時にモンゴルから来日し、同年の九州場所(11月場所)で初土俵を踏んだ鶴竜。そこから紆余曲折あって、2014年春場所(3月場所)で優勝し、ついに横綱昇進を決めた。以降、好角家を唸らせる取り口と、穏やかな人柄でファンを魅了し続ける横綱。彼がこの先に見据えるものとは――。

       ◆       ◆       ◆

「力士になりたい」と強く思った私は、父の勤務先の人が送ってくれた日本の相撲雑誌の中にあった2カ所の住所に「入門したい」という内容の手紙を送ったんです。

 2通のうち1通は、相撲記者クラブの人が読んでくれたようなんですが、「ここは相撲部屋じゃないから、入門させたりすることはできません」といった手紙が来て……。それで「ダメか……」と思っていたら、ウランバートルの自宅に日本から電話がかかってきたんですよ。

 電話をくれたのは、井筒部屋のおかみさんだったのですが、もちろん相手が言っていることがさっぱりわからない。それで、日本語の教授に間に入ってもらって、「すぐ日本に来てください」という返事をいただいたんです。

 手紙を出したのが4月で、翌月にはそういう返事をもらったのですが、私はまだ学校に通っている途中ですからね。井筒部屋のほうには「ちょっと待ってください」と伝えて、こちらの夏休みが終わり、秋場所も終わった9月に日本に向かったんです。

 180㎝、82kgで新弟子検査に合格して、初土俵を踏んだのは、2カ月後の2001年九州場所(11月場所)のことです。

 四股名は、鶴竜力三郎。

「鶴」は部屋の先代の師匠「鶴ヶ嶺」からいただいたものです。井筒部屋には「鶴」の字が付いた四股名の力士が多く、「力三郎」というのも、やはり部屋伝統の四股名「源氏山力三郎」からいただいたのですが、当時現役最年長の関取だった同じ部屋の寺尾関(現・錣山親方)も、一時期「源氏山力三郎」と名乗っていたんです。でも、それらの意味を理解できたのは、だいぶあとになってからです。

 四股名をいただいた時は、「お相撲さんになったんだなぁ」とうれしくて、「カクリュー」「カクリュー」と自分の四股名を繰り返していたみたいです。自分ではあまり覚えていないんですが(笑)。

 師匠(井筒親方=元関脇・逆鉾)からは、「アナンダ(私の本名)、半年間は部屋から出てはいけないよ」と言われていました。私は「相撲部屋とはそういうところなんだな」と納得していましたが、師匠の言いつけが間違っていなかったことは、あとでわかりました。

 2001年は初場所(1月場所)に日馬富士関、春場所に白鵬関が入門するなど、モンゴル人力士の入門ラッシュの年でした。同じ部屋に複数のモンゴル人がいる場合は別ですが、ほとんどはそうじゃないから、日本語がわからないし、教えてくれる人もいない。だから孤独になって、近くにいるモンゴル人力士とつるんで、夜、遊んだりする。

 そうやってモンゴル人同士で話していると、日本語を覚えない。つまり、いつまで経っても日本語が上達しないので、相撲部屋にも馴染めない。実際、そうした理由から、角界から去っていったモンゴル人力士は何人もいます。

 師匠はあえて「外禁」を言い渡すことで、日本人だけしかいない相撲部屋の空間で、私が日本語を早く覚えられるようにしてくれたのです。

 一方で、師匠は「ちゃんと家の人と連絡を取りなさい」と言ってくれ、普通は三段目とかにならないと持てない携帯電話を、新弟子の頃から持たせてくれました。おかげで、モンゴル語が喋れなくてつらいとか、そういう思いもしないで済んだんです。

 もちろん、稽古に関しては厳しかったですよ。部屋には、39歳までストイックに現役を続けた寺尾関がいらして、準備運動の重要性などは近くで見ていて、本当に勉強になりましたしね。

 他の部屋のモンゴル人力士は、師匠から「関取になるまでモンゴルには帰らせない」みたいに言われていて、帰りたくても帰れない人が多かったけれど、私に関しては1年に1度、里帰りが許されていました。こうした環境があったからこそ、「がんばろう!」という気持ちが強くなったんでしょうね。


井筒部屋の環境がよかったから

「がんばれた」と語る鶴竜

 そうそう、こんなこともありました。

 今年初場所、34歳で初優勝した玉鷲。彼もモンゴルでの少年時代、相撲の経験はまったくなかったんですよ。でも、お姉さんが東大に留学していた関係で、2003年に彼は東京へ遊びに来たんです。

 その時は、玉鷲自身、力士になるつもりはなかったらしいんですが、当時から体格に恵まれていたので、お姉さんから「お相撲さんになったら?」と言われたそうなんですよ。そうして、両国を姉弟でウロウロしているうちに、ウチの部屋の前にたどり着いたみたいで……。

 それで、「なんか、モンゴル人が来てるよ!」と兄弟子から言われて、私が玄関先に出ていくと、玉鷲がいた。全然知り合いじゃなかったんですけど、彼はいきなり「力士になりたいんです」と言うんですよ。

 きっと私と同じように、大相撲に入門するツテがなくて困っているんだな……とピンときたのですが、当時私はまだ三段目のペーペーですからね。自分ではどうすることもできないので、旭鷲山関に電話して事情を説明したんです。

 そこから話が進んで、最終的に当時、外国人力士がいなかった片男波部屋に入門したんですが、今振り返ってみれば、玉鷲も、私も、不思議な縁で力士になったものだなぁ……と思いますね。

 さて、力士になった私の最大の課題は、体重を増やすことでした。

 新弟子検査は82kgでクリアしましたが、日本にやってきたばかりの時は60kg台しかなかったため、「とにかく食べるように」と師匠から言われていました。

 もともと食べ物の好き嫌いはないほうだったので、白飯も食べられたし、相撲部屋では欠かせない納豆も平気でしたね。刺身のような生ものはモンゴルにはなかったから、最初はちょっと苦手でしたが、魚類にも徐々に慣れていきました。

 その結果、入門1年で95kgまで増えて、2年が経った三段目の頃には105kgくらいになっていました。それでも、同じ地位の力士と比べたら、細いほうです。自分でも食べる努力はしていたのですが、そこからがなかなか増えていかなかった……。

(つづく)

鶴竜力三郎(かくりゅう・りきさぶろう)
第71代横綱。本名:マンガラジャラブ・アナンダ。1985年8月10日生まれ。モンゴル出身。井筒部屋所属。得意技は右四つ、下手投げ。華麗な技と穏やかな人柄で、年輩の好角家から若い女性ファンまで幅広い人気を誇る。