西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(35)【背番号1】ヤクルト・池山隆寛 前…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(35)
【背番号1】ヤクルト・池山隆寛 前編
四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。
1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。
1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の18人目。
第8回のテーマは「背番号1」。前回の西武・秋山幸二に続いて、ヤクルト・池山隆寛のインタビューをお届けしよう。

フルスイングが代名詞だったヤクルトの池山隆寛 photo by Hasegawa Shoichi
【野村監督によって覆された池山の野球観】
――1992(平成4)年と翌1993年、スワローズとライオンズとの2年にわたる日本シリーズについてみなさんにお話を伺っています。
池山 今思えば、ヤクルトが一番強かった時代だし、その中で自分も主力として野球に携われた頃だったので、すごく思い出深いですね。あの2年間の日本シリーズで、僕は要所で活躍ができたので、「鮮明」とまでは言わないけど、記憶に残っていることをお話したいと思います。
――1990年に「ID野球」を標榜する野村克也監督が就任以来、スワローズは劇的な変化を遂げていきました。その象徴のひとりが池山さんだったと思います。就任当初、野村さんは池山さんに対して、かなり辛辣なことを述べていましたね。
池山 監督に就任してすぐに、野村監督が「タレントはいらない」と言っているということを、報道で知りました。「タレント」とは、間違いなく僕のことですよね(笑)。その後も、「三振を減らせ」ということで、足を高く上げてスイングすることを禁じられたり、フルスイングではなくコンパクトなスイングを求められたり、自分なりに葛藤はありました。でも、1992年に優勝して、チームの結果が伴うようになってから、その葛藤も少しずつ減っていったような気がします。
――「ブンブン丸」と呼ばれ、豪快なスイングによる特大ホームランが魅力だった池山さんにとっては、それまでとはまったく異なる野球観を求められたわけですからね。
池山 大きく足を上げてスイングしていた自分が、場面に応じてあまり足を上げずにノーステップで打つこともありましたから、その点は大きく野球観が変わりましたね。その葛藤はリーグ優勝で報われて、日本シリーズで見事に形になりました。1993年の第4戦で打った決勝の犠牲フライが、まさにノーステップで打ったものでしたから。
――その場面については、後編で伺おうと思います。さて、チームにとっては14年ぶりの優勝ということで、1992年当時のスワローズのみなさんは口々に「シリーズ前は緊張していた」と語っていました。池山さんはいかがでしたか?
池山 僕はそんなに緊張はしていなかったと思います。その後、1993年、1995年、1997年、2001年と4度の日本一になりました。責任の重さを感じたり、短期決戦の怖さを知ったりすることで、年齢を重ねるごとに緊張していったけど、1992年のシリーズでは緊張感はそんなになかった。むしろ、セ・リーグ優勝を決めた(1992年10月10日の)阪神戦のほうが緊張しましたね。あのときはベンチの中で杉浦(享)さんに、「落ち着けよ」とずっと背中を叩いてもらっていたことを覚えています。
【自ら希望して、背番号36から背番号1へ】
――池山さんにとっての1992年は、リーグ制覇、日本シリーズ出場に加えて、それまで背負っていた背番号36から、背番号1に変わった年でもありますね。
池山 そうですね。それまではヤクルトを代表する若松(勉)さんがつけていた番号でしたけど、若松さんの引退後はしばらく誰もつけていなかったので、「僕につけさせてください」と直訴し、いただいた番号です。実は、年俸交渉の一環として背番号1を要求して、「1を与えるわけにはいかないから、その分、年俸を上げる」という言葉を期待していた部分もあったんですけどね。年俸は上がらず、背番号1はもらえた、というのが実際のところです(笑)。
――池山さんが背番号1を受け継いだことで、その後、岩村明憲、青木宣親、山田哲人へと受け継がれ、今では「ミスタースワローズ」の象徴のような番号になりましたね。
池山 この番号をつけることで、チームの看板としての自覚も芽生えたし、責任感も強くなりました。常に試合に出続けて、グラウンドで目いっぱいのプレーをする。その伝統は今でも受け継がれていると思いますね。
――当時、ライオンズの清原和博さんとの対決も話題となりました。おふたりはプライベートでもつき合いがあったようですね。
池山 オフになると、一緒に食事をしたりしましたね。あるときに、「池山さんが日本シリーズに出たら、活躍できますよ。そういうタイプです」と言われたことがありました。だから、日本シリーズ出場が決まったときは「これで清原と対決できるんだ」って嬉しかったし、楽しみでしたよ。
――ところで、当時、池山さんにとってのライバルは誰だったんですか?
池山 チーム内では広沢(克己/現・広澤克実)さんで、他チームでは清原でしたね。1995年に広沢さんがFAで巨人に移籍してからは、チーム内にライバルがいなくなって、気持ちに変化が生まれた気がします。
――当時のスワローズの方々にお話を聞くと、「西武に勝てるわけがないと思っていた」という声がたくさんありました。池山さんはいかがでしたか?
池山 確かに「ひとつ勝てればいいな」という思いもあったような気がします。「トータルで西武に勝てる」とは思っていなかったけど、シリーズをトータルで考えるというよりは、目の前の試合は「絶対に勝ちたい」とは思っていました。
【1992年の悔しさがあったから、1993年に日本一になった】
――あらためて、1992年の日本シリーズを振り返っていただきたいのですが、スワローズの1勝3敗で迎えた第5戦。6-6の延長10回表、池山さんは潮崎哲也投手から決勝ホームランを放っています。ご自身の著書では「このホームランは忘れられない」と書いていましたね。
池山 あの試合は「負けたら終わり」という試合だったし、「ここで負けたら神宮には帰れない」という試合だったんです。「潮崎=シンカー」というイメージがあったけど、このシンカーは苦労しました。あのホームランを打った時はインコースのストレートでしたね。
映像を見ながら当時を振り返る池山氏 photo by Sankei Visual
――打たれた潮崎さんは「池山さんに完璧に読まれていた」と語っていましたが、実際はそうではなかったんですか?
池山 無心でバットを思い切り振り抜いたのが、たまたまよかっただけです(笑)。でも、その後も何度も日本シリーズに出場したけど、自分の打席として言えば、このホームランがもっとも印象深いですね。
――池山さんの一発でスワローズは勝利し、神宮球場に戻れることになりました。第6戦は秦真司さんのサヨナラホームランでスワローズが勝利。3勝3敗の逆王手をかけたものの、第7戦は惜敗。この年の日本シリーズについて、あらためてどんな感想をお持ちですか?
池山 この年の日本シリーズで強く印象に残っているのは、第7戦の広沢さんのスライディングの場面です。
――1-1の同点で迎えた7回裏、ワンアウト満塁の場面で代打・杉浦享さんが登場し、セカンドへのゴロをライオンズ・辻発彦選手が好捕。ホームに送球して、三塁走者の広沢さんがアウトとなった場面ですね。この場面については、スワローズ、ライオンズ双方の方たちが「印象的な場面」と口にしています。
池山 この年、負けたのは全部、広沢さんのせいだよ(笑)。というのは冗談だけど。辻さんのファインプレーでもありますが、僕が三塁走者だったら絶対にセーフになっていたと思うんですよね。でも、このプレーがきっかけとなって、翌1993年のユマキャンプは、いきなり走塁練習からスタートしたし、このときの悔しさがあったから、1993年の日本一にもつながったんだと思います。あれはあれで、意味のあるプレーだったんだと思います。
――野村さんは、「この走塁の結果、いわゆるギャンブルスタートが生まれた」と言っていました。一方の広沢さんは「オレの走塁の結果、新しい戦術が誕生したのだから、あれはギャンブルスタートではなく、”広沢スタート”だ」とも言っていました。
池山 いかにも広沢さんらしいな(笑)。でも、あのプレーをきっかけに、確かに野球の歴史が変わったのは事実かもしれないですね。
(後編に続く)