初出場で後の同僚メッセンジャーから安打、共に昇格の同僚は頭部死球の悲劇 阪神で2010~15年まで6年間プレーしたマット・マートン氏。2010年には214安打を放ち、1994年にイチロー氏が記録した210安打のプロ野球記録を塗り替えるなど、…

初出場で後の同僚メッセンジャーから安打、共に昇格の同僚は頭部死球の悲劇

 阪神で2010~15年まで6年間プレーしたマット・マートン氏。2010年には214安打を放ち、1994年にイチロー氏が記録した210安打のプロ野球記録を塗り替えるなど、首位打者1回、最多安打3回、ベストナイン4回と活躍した。2017年を最後に引退し、現在は古巣カブスでベースボール・オペレーション補佐を務めている。米野球専門メディア「ジ・アスレチック」は、マートン氏のキャリアについて特集している。

 マートン氏は2003年にドラフト1巡目(全体32位)でレッドソックスに入団。有望株として期待されたが、翌2004年に86年ぶりのワールドシリーズ制覇を目指すレッドソックスは、4チームが絡む大型トレードを敢行。エクスポズからオーランド・カブレラを獲得する代わりに、チームの顔だったノマー・ガルシアパーラと共にマートンもカブスに移籍した。

「僕はかなり忠誠心が高い人間なんだ。レッドソックスに強い思い入れがあった。残念だった。球団の人たちは僕に良くしてくれていた。だけど、教訓を学んだよ。野球は大好きだけど、ビジネスでもある。野球をするためにトレードされたんだ。だから、悪いことではなかったよ」

 記事でこのように語ったマートン氏。結果的にこのトレードが転機となった。翌2005年、2Aで78試合に出場し、打率.342、OPS.902、18盗塁と好成績を収めると、チームメートのアダム・グリーンバーグ外野手とともにメジャー昇格を掴み取った。デビュー戦はマートン氏の地元であるフロリダ州の敵地マーリンズ戦。記事では、ドルフィン・スタジアムはマートン氏が初めてメジャーリーグ観戦に訪れた球場だったと紹介されている。

 マートン氏はスタメン出場し、第1打席でこの年22勝のドントレル・ウィリスから単打を放った。さらに第4打席では、後に阪神で同僚となるランディ・メッセンジャー投手から二塁打も放った。

 自身は上々のデビューを飾ったが、翌日の試合では悲劇も見た。共に昇格したグリーンバーグが9回に代打で初出場し、初球が頭部死球となって交代。その後も頭痛が続き、結局メジャーでは2012年にもう1打席に立っただけでキャリアを終えた。このときのことを記事内で「アダム(グリーンバーグ)に起こったことを考えると、自分がどれほど幸運か実感する。自分の思い通りには行かなかったけど、健康であり、野球の人生を送れたんだ」と振り返っている。

ガムを膨らませているのを無礼だと言われ「学んだよ。文化を尊重している」

 2007年には144試合に出場し、チームトップの打率.297を放ったマートン氏だったが、翌2008年には熾烈なレギュラー争いに敗れてマイナー降格も経験。2010年からは新天地として阪神を選んだ。

「今まで経験したことと全く違った。成長して生き残らなければならないと思い、変わらなければならなかった。彼らの文化について、そして文化から学べることはたくさんあると思った」

 1年目から見事に結果を残したが、記事では、NPBでシーズン安打記録を塗り替えたマートン氏とMLBでシーズン安打記録を塗り替えたイチロー氏の共通点も指摘。「マートンの異なる文化、言葉の環境における人生とプロキャリアへのアプローチには似たものがあった。イチローはすぐに英語を学んだが、あまり披露はしなかった。イチローはアメリカ野球をもっと知るため、オフになるとクーパーズタウンに行って学んだ」としている。

 日本で学んだことの1つとしてストレッチを挙げているマートン氏。「イチローが成し遂げたことはストレッチ、柔軟性と可動性に注力したおかげなんだ。彼らは投手を本当に注意深く見ている。たくさん学んだよ」。一方で、ガムをふくらませている写真を撮られて批判されたこともあった。「無礼だと思われるとは知らなかった。学んだよ。つまようじで果物を食べ、そのつまようじをくわえていたこともあった。それも無礼だと思われた。学んだよ。試合の文化を本当に尊重している。共通点は野球だからね」と日本の文化を徐々に学んだとしている。

 阪神での6年間を「絶対に忘れられない経験だよ」と記事内で振り返っているマートン氏は、野球を通じて様々な環境に適応してきたという。

「僕は強い信念を持っているんだ。他人と接する時、違いを考えるのではなく、共通点を見つけるようにしている。僕の場合、その共通点は常に野球だった。ケープリーグで国内のあらゆる場所出身の大学生たちとプレーしたこと、マイナーへ降格したこと、日本でプレーし、クラブハウス、文化、歴史、彼らが尊重することを学んだこと、34歳でアメリカに戻ってきて、若者たちとプレーしたこと。人生は適応の旅であり、その旅には尊重することが伴う。僕の場合、経験したことは全て野球のおかげなんだ」

 引退後もカブスのベースボール・オペレーション補佐として、マイナーでの巡回指導やスカウト活動などを行っているマートン氏。昨年は大阪北部地震、台風21号の被災地支援のために来日するなど、日本との縁も続いている。(Full-Count編集部)