西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(34)
【背番号1】西武・秋山幸二 後編

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【1992年第6戦、秋山が犯した走塁ミス】

――1992(平成4)年日本シリーズ、ライオンズの3勝2敗で迎えた第6戦について伺います。6-7と1点ビハインドの9回表ツーアウト一塁の場面で打席に入ったのが秋山さんでした。まずはこの場面の映像を見ていただけますか?

秋山 おぉ、大塚(光二)が一塁ランナーか。今、東北福祉大の監督をしてるよね。ここで、僕が右中間に打って、大塚が一気にホームインして同点。……あぁ、バックホームの間に僕が二塁に進塁しなかったことで、(サードコーチャーの)伊原(春樹)さんが怒ってるね(笑)。


映像を見ながら当時を振り返る秋山氏

 photo by Hasegawa Shoichi

――はい。9回ツーアウトから起死回生の走塁で同点に追いついたにもかかわらず、それでも浮かれることなく、ミスを叱責する伊原さんの姿こそ、「ライオンズの強さ」の象徴であるように思えます。当事者として、この場面はどう振り返りますか?

秋山 これはオレのミスだね(笑)。目の前を(ホームへの)返球が通過したことで、つい止まってしまったんでしょう。「よし、打った!」というところで頭が止まってしまって、その先をきちんと考えられなかった、というところです。

――結果的に大塚さんの好走塁で同点に追いついたけれども、打者走者の秋山さんとしては、なおもセカンドを目指す姿勢を忘れてはいけなかったというところですか?

秋山 それもあるし、ホームは間一髪のプレーになるのは間違いないわけだから、相手の中継プレーによっては、おとりとして一、二塁間で挟まれる必要もあったかもしれない。そんなことがスッポリと頭から抜けている、僕の完全なミスです(笑)。でも、それは今だから言えることで、なかなか選手はそこまで冷静になれるものではないですけどね。

【1992年第7戦、日本一を決めた決勝犠牲フライの裏側】

――次に伺いたいのが翌日の1992年の第7戦です。3勝3敗で迎えたこの試合はどのような心境だったんでしょうか。1勝3敗からタイに持ち込み、逆王手をかけたスワローズサイドに勢いがあったのですか?

秋山 いや、「逆王手」とか、そんなことは関係ないと思いますよ。ただ単に「今日の試合ですべてが決まる。ならば勝とうぜ!」っていう感じだったかと。とにかく、負けたら終わりなんだから、「勝つしかない」という思いだけですね。

――この日はライオンズ・石井丈裕、スワローズ・岡林洋一両投手が好投。共に譲らず、1-1のまま延長戦に突入します。そして、延長10回表、ワンアウト三塁の場面で打席に入ったのが秋山さんでした。

秋山 はいはい、よく覚えています。僕の犠牲フライが決勝点になったんですよね。追い込まれてからの外角へのスライダーを打ったんですよ。

――この連載において、打たれた岡林投手、そして森祇晶、野村克也両監督が、いずれも、「この場面が忘れられない」と語っていました。誰もが「あとボールひとつ分、外に外れていれば空振り三振だった」と言っていましたが、ご本人はどう振り返りますか?

秋山 その通りです。逆に、あとひとつ分、インサイドだったらホームランだったと思います。あのコースだったから、三振にもホームランにもならずに外野フライ、結果的に犠牲フライになったんだと思いますよ。たぶん、(キャッチャー)の古田(敦也)の意図が(ピッチャーの)岡林にうまく伝わっていなかったんじゃないかな。

――詳しく教えて下さい。

秋山 この場面、古田は空振りをとりたかったから、「ボールでいい」と思っていたけど、その意図が岡林にうまく伝わっていなかったので、ストライクゾーンのギリギリになってしまった。あるいは、もともとは外すつもりだったけど、技術が足りなくてバットが届く範囲に投げてしまったか。そんなところじゃないですか?

――秋山さんご自身は、この場面で何を狙っていたのですか?

秋山 外のスライダーです。

――ということは、完全に狙い通りのボールが来たわけですね。

秋山 そうです。だって、僕はホームランを打つつもりでいましたから(笑)。当時は、たとえインサイドを投げられても、ファールで逃げる技術はありました。でも、配球的には”外のスライダーだろう”という思いはありましたからね。

【西武もヤクルトも、どちらも強くていいチームだった】

―― 一方、森監督は「この場面では秋山を敬遠して、続く(途中出場の)奈良原(浩)との勝負だろう」と考えたそうです。しかし野村監督は、「足の速い秋山を塁に出して、小技の利く奈良原との勝負は、作戦が読めないので避けたかった」と言い、同時に「秋山なら三振の可能性があると踏んだ」とのことでした。

秋山 たぶん、その点も中途半端だったんでしょう。きっと、野村さんには「カウントによっては歩かせてもいい」という思いがあったんじゃないのかな。”当時の秋山さん”はまだそんなことまで考えられなかったけど、後に監督をやった”今の秋山さん”なら、そう思うな。僕だったら、中途半端な指示はしないですね。「歩かせるか?」、それとも「攻めるか?」をハッキリさせますね。

――結果的に秋山さんの打球はセンターフライとなって、決勝点が入りました。このときはどのような心境なのでしょうか?

秋山 この時点でもまだ石井(丈裕)がマウンドにいたから、「これで勝ったな」と思っていましたよ。僕はセンターだったので、石井のボールはよく見えていましたからね。と同時に「このまま終わってくれ。このまま終われば優秀選手賞ぐらいはもらえるかな?」って考えていたんじゃないかな? 結局は何ももらえなかったんですけど(笑)。


長らく、黄金期の西武の主軸を担った秋山

 photo by Sankei Visual

――あらためて、この2年間をどのように振り返りますか?

秋山 後に監督を務めた経験で言えば、この時の僕はまだまだ足りない。「もっと野球を勉強しなさいよ」と言いたいですね(笑)。

――これもみなさんに聞いているのですが、両チームの対戦は2年間通算で全14試合を戦って7勝7敗で、共に日本一に一度ずつ輝いています。果たして決着は着いたのでしょうか?

秋山 たぶん、両チームの力はそんなに変わらないんですよ。短期決戦というのは、ひとりの選手の調子や、たったひとつのプレーで大きく変わるんです。ひとつのミスがあれば負けるし、ひとつのファインプレーがあれば勝てる。それで流れが大きく変わるし、結果も変わってくる。そういう意味では、どっちにもチャンスがあったし、どっちも強かったんですよ。紙一重の差で試合が決まるのが短期決戦ですから。

――だからこそ、この2年間の両チームの激闘は、今もなお語り継がれる日本シリーズとなったんでしょうね。

秋山 ともに4勝3敗で日本一になったということは、本当にいい勝負をしたんだと思います。そして、ともによく似たチームだったんだと思います。西武もヤクルトも、どちらもいいチームで、どちらも強いチームだったんだと思いますね。

(池山隆寛の証言につづく)