この夏の甲子園に出場した49校の指導者のなかで、高校野球から一番遠いところに身を置いていた人間なのかもしれない。

 今から16年前、石見智翠館(島根)の部長を務める谷本暁彦(あきひこ)の姿は、六本木のバーカウンターの奥にあった。



高岡商戦で9回に同点に追いつき選手たちとガッツポーズをする石見智翠館の谷本部長

 名門・PL学園(大阪)出身。今夏、監督として津田学園(三重)を甲子園に導いた佐川竜朗らとともに、高校3夏の甲子園に出場した。卒業後は、日大、川崎製鉄千葉(現・JFE東日本)で野球を続けた。野球界の王道と言ってもいい輝かしい球歴を歩んでいたが、プレー中の違和感が谷本の歯車を狂わせる。

「イップスになってしまったんです。投げ方がわからなくなったのに、無理やり投げ続けるから、今度は肩と腰を痛めた。この時期は精神的にもまいっていましたね」

 野球部運営の予算の都合もあり、満足にプレーできない選手が長々と在籍することは難しい。シーズン終了後の面談で「上がって(引退して)くれ」と、現実を突きつけられた。

 社業に専念する選択肢もあったが、ここまで野球一筋で生きてきた身。その野球が満足にできなくなった今、「会社に残っても仕方がない」という思いが強く芽生えていた。

「環境を変えたい気持ちもありましたし、野球ができなくなった以上、頭のなかは『ここにいたくないな』という思いばかりになっていて……」

 半ば衝動的に退職届を提出。次の仕事のあてもなく、東京の街をさまよっていると、引き寄せられるようにひとつの店が目に入った。

「麻布十番のレストランが目に止まりました。勢いで飛び込んで、『雇ってください!』と。各国の大使館の近くにあるような高級店で、いま思い返すと『よう飛び込んだな……』と自分でも思います。この時期の僕を知る友人たちからは『あの時のお前は本当にヤバかったぞ』と今でも言われるくらい、精神的にまいっていたからできたのかなとも思います」

 飛び込みでの修行希望の前例がなかった店側は困惑。しかし、最終的には真っ直ぐな眼差しで訴えかける谷本の情熱が勝った。当日中に採用が決定。そこから店のホールに出続け、接客を学んでいった。勤務開始から約半年が経過したころ、大学時代の先輩のひとりから「自分の事業に力を貸してほしい」と打診を受ける。

「日大野球部時代の先輩が手がけている仕事を手伝ってくれないか、と話をいただきました。約半年間レストランで接客を学ばせてもらって、それを生かせる仕事だとも言ってもらえて」

 会社員、レストランのウエイターを経験した谷本の次なる職場は、六本木の高級クラブ。今度は黒服として店に立つ日々を送った。

 3カ月が経ち、業務にも慣れてきた頃、再び件の先輩から話を持ち掛けられる。「これで何かやってみろ」。この言葉とともに、まとまった額の開業資金を手渡された。

「先輩から開業資金をいただいて、今度は自分が何かしらの事業をやることになりました。じゃあ、自分に何ができるかと考えたとき、生かせるのはここまで学んできた接客やサービスだと感じたんです」

 自身の能力と現実的な利益率を勘案し、バーを開業すると決めた。出店場所と開店日が決まってからは、ひたすら営業に出向いた。

 営業活動のスタートから約3カ月間は、「3時間寝られればいいほう」な生活。睡眠時間を削りながら、地道に営業を続けた。球歴を歩むなかで築いた人脈を生かすため、一睡もしないまま野球場に訪問した日もあった。

 谷本の奔走の甲斐もあり、赤字になったのはオープン当初の3カ月間のみ。早々に店の黒字化に成功した。

 当時25歳。雇われ店長の身ではあったが、同年代の会社員の給与よりもはるかに多くの金額を手にできるようになった。

 順調そのものだったが、同時に谷本のなかに満たされない感情が生まれていく。

「経営が軌道に乗って、贅沢な悩みではあるんですが、目標がなくなってしまったように感じました。胸のなかの熱いもの、熱くなれるものがなくなってしまったというか……」

 抱いたモヤモヤ感は、潤沢な月給を手にしても払拭できず、気のいい常連たちと酌み交わす酒でも流し込めなかった。

 燃え尽きにも近い状態の谷本の目に飛び込んできたのが、自宅にあった母校・PL学園のユニフォームだった。

 PL学園の公式戦用ユニフォームは部で管理され、大会ごとに選手に貸与される。返却が義務付けられており、選手たちの手に渡ることはない。しかし、谷本たちの代は高校3年の国体で優勝しており、その記念として例外で着用したユニフォームを貰っていた。

 小学1年生の時、球場で初めて見て、憧れを抱いた特別な存在。「行けると思っていなかった」はずが中学時代に勧誘を受け、二つ返事で進学を決めた母校のユニフォームを見たとき、全身に熱いものが駆け巡った。

「あらためてPLのユニフォームを目にした時、『これや!』と思いました。あれだけワクワクさせてくれて、自分を熱くしてくれるものは高校野球しかない。この時、もう一度高校野球に携わりたい、指導者になりたいと強く思いました」

 日大時代に教員免許を取得していなかったため、地元の大阪に戻り、太成学院大に編入。2年間大学に通い直した。

 そして、教育実習で母校に再訪。指導者という新たな夢を持って踏みしめたPL学園のグラウンドは格別だった。

 当時PL学園を率いていた藤原弘介(現・佐久長聖監督)から江の川(現・石見智翠館)の監督の末光章朗(あきろう)を紹介された。

「『来年、今のコーチが母校に帰る関係で指導者に空きが出る』という話を藤原監督から教えていただきました。いろいろな縁が重なって、末光監督に連絡をさせていただいたんです」

 当時、江の川のコーチを務めていた山木博之(現・鳥取城北監督)が母校である鳥取城北に戻ることが決まっており、ちょうど後任を探していた。谷本が高校3年の時、末光が教育実習で来校、指導を受けていた縁もあった。

 2008年、生まれて初めて島根に降り立ち、江の川のグラウンドを訪れた。

「ご無沙汰しております! 42期の谷本暁彦です!」

 あいさつのあと、末光から「日本一を目指して一緒にやっていこう」と言葉をかけられた。

 翌2009年、江の川から石見智翠館へと校名が変わるタイミングで赴任。2年間はコーチを務め、3年目の2011年から部長となった。

 部長として臨んだ最初の夏、チームは校名変更後初の島根大会決勝進出。「甲子園に行ける」と手ごたえを感じたが、対戦した開星に白根尚貴(元・DeNAほか、現・四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツコーチ)の一発を含む3被弾。いきなり甲子園とはならなかった。

 指導者としての初甲子園は、それから2年後の2013年。高校3年以来の聖地に立ったとき、今まで歩んできた流浪の人生が頭を駆け巡った。

「言葉では言い表せないような感動でした。選手で出場したとき以上の感動で、これ以上の喜びはないとも感じました。同時に社会人野球で味わった挫折や、その後職を転々としたときの思い出や感情も一気に思い出されてきました」

 2015年、そして今夏も甲子園出場。谷本にとって3度目の夏となった今年、高岡商と延長10回にもつれ込む熱戦を繰り広げたが、4-6で敗戦。試合後、谷本は放心状態になるほどの悔しさを味わった。

 今夏を戦うなかで、谷本の脳裏に焼き付いているシーンがある。島根大会の決勝でのことだ。

「延長13回、相手の開星に勝ち越しの2ランホームランを打たれました。選手たちがベンチに戻ってきたときに末光監督が『伝説がはじまるで!』と声をかけていたんです」

 その言葉どおり、13回裏に3点を奪っての逆転サヨナラ勝ちで甲子園を決めた。末光の言葉と高校時代の恩師の言葉が、谷本のなかで重なった。

「高校3年の夏、大阪大会の準決勝で、延長10回表に2ランで2点を勝ち越されたんです。裏の攻撃の前に、中村順司監督が『この攻撃が語り草になるぞ!』と話されて。『あ、あの時と一緒や』と試合後に思ったんです」

 そして、こう続けた。

「末光監督も私もPL学園出身ですが、生徒は違いますし、『自分たちがPLと同じように教えよう』とは考えていません。それでも、今年の夏を振り返ると、やっぱり自分たちのなかにPLで過ごした経験が息づいているのかな、と思わされました」

 現在休部中のPL学園野球部について、こう思いを語る。

「復活してほしいな、とは思いますね。やっぱり。強くなくてもいい。ただ存在して、活動していてほしい。それだけでも意味のある存在だと思うので」

 一度は自ら野球と距離を置いたが、今は「もう離れたくないし、手放したくないですね。絶対に」と噛みしめるように言葉をつないだ。

 紆余曲折の末、自分を熱くさせる場所に気づいた青年は、これからも野球に向き合い続けていく。