2018年夏の甲子園で準優勝した吉田輝星(金足農業/現・北海道日本ハムファイターズ)の連投に続き、今年は佐々木朗希(大船渡)の登板を巡って社会問題化した高校野球の「球数制限」。野球関係者だけでなく、ファンの間でも賛否が入り交じっている…

 2018年夏の甲子園で準優勝した吉田輝星(金足農業/現・北海道日本ハムファイターズ)の連投に続き、今年は佐々木朗希(大船渡)の登板を巡って社会問題化した高校野球の「球数制限」。野球関係者だけでなく、ファンの間でも賛否が入り交じっている。

 そんな状況を、現役時代に肩のケガに苦しんだ斉藤和巳はどう考えているのか。プロ3年目に右肩の手術を行ないながら、2003年から2007年の5年間で70勝。その後、さらに2度の肩の手術をし、6年もの間リハビリを続けて2013年にユニフォームを脱いだ沢村賞投手が「球数制限」について語る。




U-18W杯に出場する高校日本代表に選出された佐々木

――斉藤和巳さんがピッチャーを始めたのは、中学3年生になってからでしたね。南京都(現・京都廣学館)のエースだった高校時代は、どんな練習をしていましたか?

斉藤 ブルペンでの投球練習が好きじゃなかったので、60m~70mの距離の遠投をよくしていました。もうひとりのピッチャーと、どれだけ低くて速いボールを投げられるかを競うように。

――高校のコーチは、入学直後の斉藤さんのピッチングを見て「投げ方がきれいすぎるから、故障するかもしれない。大事に育てよう」と考えたそうですね。

斉藤 当時は「どうして投げさせてくれんのかな?」と思っていましたが、今思えば、大事に扱ってもらっていたんでしょうね。1年生の時はほとんど登板することがなく、走らされてばかりだったので、走るのが嫌で嫌でたまりませんでした。

――のちに、肩の関節がゆるい「ルーズショルダー」であることが判明します。その頃はまだ高校生だったと思いますが、自分の肩についてどう思っていましたか?

斉藤 自分ではよくわかっていませんでした。大事にしてもらっても、しょっちゅう肩が痛くなりました。痛くなったら投げるのをやめて、治ったらまた投げるという感じでしたね。体の構造についての知識がなかったので、病院に行くこともなく、肩を鍛える特別な練習もしていませんでした。振り返れば、「肩が痛いなら、腕立て伏せをするように」とよく言われていましたね。

――斉藤さんが高校に入学した時に182cmだった身長は、卒業時には188cmに。プロに入ってからも背が伸びたんですよね? 

斉藤 22歳くらいまでにさらに4cm伸びて、192cmになりました。プロ入り後、病院でレントゲンを撮った時、「まだ成長途中だから、気をつけて投げるように」と医師の方に言われたのを覚えています。

――1995年ドラフト1位で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)から1位指名を受けた斉藤さんは、プロ1年目は二軍でも登板なし。3年目のオフに肩の手術を行ないました。

斉藤 今のスポーツ医学から考えれば、それほど難しい手術ではありませんでした。でも、その頃の野球界では「ピッチャーが体にメスを入れるなんて……」と言われていて、僕には知らされませんでしたが、元通りに投げられるようになるかどうかは五分五分という症状だったそうです。

――その肩の手術、リハビリを経て、2000年にプロ初勝利を飾り、2002年には先発ローテーション入り。2003年に20勝を挙げたあと、7割を超える勝率を誇る「負けないエース」になりましたね。

斉藤 手術とリハビリを経験したことで、体の構造を知ることができました。「今、疲労が溜まっているな」とか、「このまま投げ続けるとヤバイな」というのがわかるようになりましたね。

――斉藤さんの特長でもあり”爆弾”でもあった「ルーズショルダー」とはどういうものですか?

斉藤 人よりも肩の関節が柔らかいんですが、それは武器でもあります。肩をしなやかに使うことができれば、ほかのピッチャーとは違うボールを投げることができますから。でも、故障しやすいという側面もあって。肩の筋肉の強度を高めるトレーニングをして、常に関節のバランスを保つようにしました。

――プロ野球シーズンは3月から11月までの長丁場ですから、ケアも大変だったのではないでしょうか。

斉藤 どれだけケアやトレーニングをしても、いつの間にか肩に負担がかかっていました。ボールは肩だけで投げるわけではありません。下半身の力を肩から指先に伝えて速いボールを投げるのですが、最終的に痛みは弱い箇所に出てきます。僕の場合は、それが肩だったということです。肩に負担がかからない投げ方もあるのでしょうが、僕にはできませんでした。

――2007年にはかなり肩の状態が悪くなり、10日以上の間隔を開けて先発していましたね。

斉藤 その頃にはもう、肩の状態が「ただごとではない」とわかっていました。先発したあとは3日ほど肩が上がらない状態でしたから。1週間ほどかけて疲労を取り、残りの数日で次の登板に備えるというスケジュールでした。

――その後、2度の手術、6年間にわたるリハビリを経て一軍復帰を目指したものの、斉藤さんは2013年限りでユニフォームを脱ぐことになりました。そんな斉藤さんは、「高校野球でピッチャーに『球数制限』を設けるべき」という声が強くなっていることをどう考えていますか?

斉藤 僕の場合は、高校の監督やコーチにしっかり守ってもらいました。甲子園に出るようなチームでもなかったので、連投や酷使とはあまり関係がなかった。それでも肩が痛くなったので……非常に難しい問題ですね。

――約190cmの長身で、速球が武器の本格派ながら、まだ体は成長途中。おまけに、高校では四番でエース。大船渡の佐々木朗希投手と斉藤さんには重なる部分がたくさんあります。

斉藤 僕の高校時代の最速は143キロですから、彼と比べれば全然です。160キロを超えるボールを投げるということだけでも、彼の素質のすごさがわかります。

――高校生に「球数制限を」という声もある一方で、「高校野球で燃え尽きてもいいのでは」という指導者もいます。佐々木投手が岩手県大会の決勝に登板しなかったことについても、「投げさせてやりたかった」という意見もあれば、「選手の体を考えた大英断だ」と評価する人もいますが、それについてはいかがですか?

斉藤 難しいですよね。決勝戦までの逆算をして、それまでの球数を抑えられればよかったんでしょうけど、彼が投げなければ途中で負けていた可能性もある。肩やひじの状態について、僕には情報がないので何とも言えません。

――もし斉藤さんが佐々木投手と同じ立場ならどうしましたか?

斉藤 僕ならば「バッターとして出たい」と言ったと思います。チームの仲間は佐々木投手の状態はわかっていたでしょうし、彼の将来のことも考えたはず。そのうえで、四番バッターとして出してあげられなかったのかなと考えました。

 監督が、佐々木投手の将来を考えて投げさせなかったことは否定しません。登板しなかったことに対して「どうして?」とはまったく思わない。もし、佐々木投手が投げたとしても、もしくはバッターとして出たとしても、優勝できたかどうかはわかりません。ただ、試合に出ないで負けるよりは、仲間の納得感は大きかったでしょうね。

――「球数制限」について、斉藤さんはどう考えていますか?

斉藤 投げれば投げただけ、故障のリスクが高くなることは間違いない。故障したくなければ投げなければいい。球数を減らせばリスクは減りますが、故障をすべて避けられるわけじゃないですけどね。一方で、たくさん投げることで投球フォームがよくなったり、筋力がついたりして自分を守れることもある。そこが難しいところです。

――選手のコンディションを見るというのは、指導者の問題でもあります。斉藤さんがホークスで活躍していた時に投手コーチだった尾花髙夫さんはこうおっしゃっています。「投げたボールを見て『肩が痛いのでは?』と思った時には、取り返しがつかないくらいの状態になっていると考えたほうがいい。だから投手コーチは、キャッチボールの段階から状態をしっかり見ていないと。ピッチャーは、肩がおかしいと思えば肩を回すし、ひじに異変を感じればそういう仕草をする」と。

斉藤 今回の佐々木投手のことについても、おそらく誰も間違ってないんです。彼自身の中にも「決勝はみんなのために投げたかった」という思いがあったでしょう。さまざまな要素が絡んでいることなので、単純に「100球で」といったように球数を制限することが正しいかはわからない。その選手も、チームメイトや関係者も、みんなが納得できるようなルール作りをするために、決定までのプロセスを大事にしてもらいたいです。