PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第6回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

◆ ◆ ◆

 1992年バルセロナ五輪女子マラソンで有森裕子が獲得した銀メダルは、ある意味では奇跡的だった。



96年アトランタ五輪では3位。2大会連続女子マラソンでメダルを獲得した有森裕子

 前年の世界陸上東京大会で、有森は2位の山下佐知子に続いて、日本人2番手の4位に入った。実績はある。だが、バルセロナ五輪直前合宿のジョギング中に木の根を踏み、踵(かかと)を痛めてしまっていた。

 バルセロナ入りすると、有森はシューズを作ってくれている三村仁司(当時・アシックス)を訪れ、泣きながら「棄権はしたくない。ジョギング用のアップシューズで走るしかない」と訴えた。三村は「何とかする」とレース用シューズを預かると、踵の部分をくり抜いて、クッション性の高い素材に入れ替えるなどの工夫を凝らし、彼女のシューズに応急処置を施した。

 そのような状況だったにもかかわらず、有森は35km過ぎに先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ(ロシア/当時はEUN[※]で出場)に追いつき、スタジアム入り口までデッドヒートを演じた。結果は、8秒差の2位。三村は「スタジアムの映像を見ていたが、有森が先頭に追いついてきたのには驚いた。競り合っている姿を見て涙が出てきた」と話した。
※旧ソ連のバルト三国を除く構成12国によって臨時に編成された選手団

 96年アトランタ五輪では、有森は前回メダリストとして、期待を一身に背負う立場になっていた。だが、バルセロナ後は走れない時期が続き、右の踵を手術。3年ぶりの復帰レースになった95年8月の北海道マラソンで優勝し、それが評価されて代表に選ばれた格好だった。

 7月28日のレースは早朝スタートで、しかも直前に雨が降ったこともあって、予想より涼しい中で始まった。すると、94年からボストンマラソン3連覇中の実力者ウタ・ピピッヒ(ドイツ)がスタートから飛び出し、ハイペースの展開になった。

 それに対して有森は「予想以上のハイペースの入りで、早くから集団の人数が絞られたので戸惑った」と振り返る。エゴロワやドーレたち主力集団の中で、有森は落ち着いたペースで走っていたが、11㎞過ぎで浅利純子と真木和が遅れはじめ、日本勢は有森1人になった。

 17kmでピピッヒが集団に吸収されてレースは落ち着きを見せはじめたが、19kmでファマツ・ロバ(エチオピア)が飛び出した。だが、集団は動かなかった。

「小出義雄監督から『16kmまでは苦しいと思うが、そこを頑張って集団についていけ。誰か1人が飛び出したら、2位集団につけ』と言われていました。ロバ選手が飛び出した時はちょうど座骨の痺れが出ていて、脚の動きが鈍いなと思っていたので、ついて行かなかったんです。まさか彼女が優勝するとは思っていなかった」と言う。ロバは、他の強豪選手たちからもノーマークだった。

 ロバは、25kmで2位集団との差を53秒にして、その後もジワジワと差を広げて独走状態に持っていった。5人が追う展開になったが、有森は30kmを過ぎた下りでスパートした。

「監督からは、『得意の下りは自分のペースで行け』と指示されていました。とりあえずそこを頑張って、押すだけ押したらあとは逃げ切れるかな、という思いもあった」と話す。1人で抜け出すことに成功した時には、「これでバルセロナと同じ銀がとれるかな?」とも考えた。

 だが、33kmでバルセロナ五輪でも死闘を繰り広げたエゴロワが追いついてきた。下りきってからの有森は座骨の痺れが再び出てきて、脱水症状のような感覚だったという。結局、34km手前の上り坂でエゴロワに突き放され、3位に落ちた。

「エゴロワ選手は絶対に来ると思っていたし、バルセロナと同じような状態になっても嫌じゃなかったですね。どんな状況になっても、彼女と戦えることがうれしかった。40kmを過ぎてからは監督に『ドーレが来ているから逃げろ』と声をかけられたけど、それは自分を前に進ませるための言葉だと思っていたんです。でも、競技場に入ってそれが本当だったとわかり、ちょっと焦りました」

 こう話す有森は、6秒差でドーレの追撃を振り切って3位でゴール。日本女子陸上初の2大会連続メダル獲得を果たした。

 ゴール後に有森が口にした、「初めて、自分で自分をほめたいと思います」という言葉は、当時大きな話題になった。その2日後のインタビューで、彼女はこう語っていた。

「五輪までは故障もなくて痛みも出ず、思った以上に何ごともなく練習をちゃんとできました。でも、それはどうしてなのか、と考える時期もありました。自分は壊れない程度の練習しかしていないのではないか、本当に順調に進んでいるのだろうか、と不安に感じることもあり、そんな精神状態で練習を続けるのがつらい時期もありました。

 バルセロナの時は、疲労困憊になるほど詰めて走ったし、故障をした時期もありました。その時とは違う順調さに不安を感じるのはぜいたくな悩みだけど、そう思えないような精神状態で…。欲が深すぎると言われても、『これでいいや』と言えるほどの勇気もなかったし、思えませんでした。調整を失敗したくないという意識もありましたが、その面ではバルセロナの時より精神的に苦しいものがありましたね」

 レース前夜は一睡もできなかった。それを聞いた小出監督は「勝負をかけるときはそんなもの。人間は一晩や二晩寝なくても絶対に大丈夫だ」と言って笑い飛ばしたという。その言葉の効果もあったのか、スタート後の有森は変な欲を持つこともなく、「とにかく頑張ろう。自分と戦って頑張りきろう」という思いだけを抱いて走ることができた。

 ゴールしたあと、2時間28分39秒という自分の記録を見て驚いたという。大会前には小出監督から「2時間30分を切ったら優勝だ」と言われていた。ロバの優勝記録は2時間26分05秒だったが、有森も自己ベストに38秒まで迫るタイムだった。

「今まで2時間30分かかっていたのは何だったんだろう」とも思ったという。「コースがキツくなかったというよりも、むしろ、不思議とラクに走れたんです。自信があったということではないんですが、とにかくここに来ることができて、それがうれしかった。その気持ちが自分をすごくリラックスさせてくれたのだと思います」

「バルセロナのあとには走れなくて悩む時期もありました。それでも続けてきたのは、『もしかしたら、まだ(自分はできる)』という気持ちがあったんでしょうね。バルセロナが終わると周囲の状況が急に変化し、自分が思っていたのとは全然違うものになっていました。それはなぜなんだろう、と疑問に思っていましたが、それを忘れたり考えないでいるような自分ではいたくはなかったんです。

 自分の中でその時に感じて思っていたことを明確にするために必要なのは、あの時と同じ五輪という場所に戻ることだ、と思ったんです。アトランタでは、自分自身が納得できたから気持ちよく終われたのだと思います。でも、それはメダルを獲れたからであって。獲れなかったらまったく別の状況になっていたでしょうね」

 有森は自分が強いという自覚はまったくなく、他人より優れた才能を持っていると思ったこともないという。ただ唯一思うのは、他人よりも頑張れる、という意識だ。自分の良さである”常に頑張れる自分”を、アトランタでもう一度確認できたからこそ、彼女は納得のレースができたのだ。

 有森はそのすばらしい結果を残した直後でも、「ホッとしている自分はいるけど、はしゃぐ自分はいないし、舞い上がるものもない。次に何をするか、次はどうあるべきか、を考えている自分がいるだけです」と、ひたすら冷静に受け止めていた。