スポーツにはプレーヤーがいるのと同時に、多くの支える人たちが存在する。 今も昔も機械ではなく、スポーツは人が作る。その中には楽しさだけではなく、様々な想いや葛藤、ストーリーがある。今回の「志事人」は、日本野球機構セントラル・リーグ統括 杵渕…
スポーツにはプレーヤーがいるのと同時に、多くの支える人たちが存在する。
今も昔も機械ではなく、スポーツは人が作る。その中には楽しさだけではなく、様々な想いや葛藤、ストーリーがある。
今回の「志事人」は、日本野球機構セントラル・リーグ統括 杵渕和秀さん。
セ・リーグの試合が毎日問題なく見れているのは、この方がいるからと言っても過言ではない。
シーズン中の忙しい中であったが、なかなか聞くことのできない話を聞くことができた。
私自身もセ・リーグの審判員として採用されたので、とてもお世話になった方だ。
昨今スポーツは大きな変化を求められつつあるが、運営していく立場としての話を聞いていこうと思う。

「セ・リーグに入る前は、ヴェルディのチームマネージャーを4年間していたんです。」
この言葉からインタビューは始まった。私は思わず、えっ!?と声が出た。
杵渕さんは新潟県出身で、少年時代から野球が大好きな少年だった。男の子ならば一度は野球をやるのが当たり前、そんな時代だった。
高校を卒業し、念願の野球関係のスポーツメーカーに就職。しかし自身の思い描いていた職場とは違い、色々と悩んでいた。そんな時以前から繋がりのあった方から、Jリーグのチームマネージャーにならないかと声がかかった。
それも人気絶頂だったヴェルディ川崎(当時)からのオファーだった。
チームにはキングカズこと三浦知良、ラモス瑠偉、前園真聖、北澤豪、ビスマルクなどスター選手が在籍しており、今のサッカー人気を支えてきたと言っても過言ではないチームからのいきなりのオファーだった。
野球ではないがプロスポーツに携われる。気持ちも新たに次のステージに挑戦したのだ。
だが、そう上手くはいかなかった…。
「選手をサポートする立場であるのに、サッカーを経験したことのない私は何をサポートしたらいいのか、サッカー選手の気持ちが全くわからなかった。」
野球とサッカーは全く違った。
少年時代から野球漬けのスポーツマンであったこともあり、多少は自信があった。
しかしサッカーについての知識が全くなかった為、いざサポートしようにも何をしていいのかわからない。自身が至らないことも多くあったそうだが、当時はまだ日本のスポーツ界全体が閉鎖的であり、よそ者が来たような扱いに感じたこともあったそうだ。
仕事はもちろんだが、人間関係でも苦労した4年間だった。

そして1998年、株主が変わったこともあり、様々な見直しがあったそうだ。その中で杵渕さんにも声がかかった。
「すでに家庭もあったので契約終了だと告げられた時は不安もありました。でも4年間携われたことは今でも感謝しています」
杵渕さんは契約更新できなかった事を恨むどころか、4年間貴重な経験させてもらったことに感謝していた。
しかし家庭を持っていた為、無職では家族を守ることが出来ない。実直な杵渕さんはすぐに次の職を見つけ、スポーツとは関係のない職場で働き始めた。そこで働く中で、再び湧き上がっていたのは、野球への情熱。
自分自身の正直な気持ちと葛藤する日が続いていたある日、スポーツメーカーの時からお世話になっていた、当時のセントラル野球連盟の部長から「職員に欠員が出る」との情報をもらった。迷うことなく二つ返事で入局への意志を伝え採用となった。ここから杵渕和秀の人生は野球一色となってく。

杵渕さんはセ・リーグに入り、まずは選手登録の仕事を担当。
選手登録の仕事というのは、新入団選手やトレードの選手などを世の中に公示する仕事だ。その為、事務的な仕事であったが大好きな野球ということもあり、苦にはならず達成感があったそうだ。
「今年で入局して19年目になりますが、イースタン・リーグ(2軍)担当時代での経験は私にとって大きかったです。」
このことが杵渕さんの中ではとても大きな経験になった。
イースタン・リーグを担当した時期は、ちょうど2004年に大阪近鉄球団の消滅が発表され、楽天球団が新しく作られた野球界にとっての大きな変革期と重なったのだ。
2軍はイースタン・リーグ7球団、ウエスタン・リーグ5球団で新しく運営していかなくてはならなくなった。
そんな中、新しく育成選手制度もできた。育成選手とは一軍や二軍の支配下選手ではない、背番号が3桁の三軍に近い存在。選手が増えたことで、2軍選手の実戦機会がより減ってしまうことになる。そんな中、各球団の幹事などと議論を重ね、1つの答えが出た。
それが「チャレンジ・マッチ」であった。
イースタン・リーグは7球団になり、奇数球団の為にどうしても1球団余ってしまう。そこで試合のない1球団と残り6球団から出場機会の少ない若手主体の混成チームを作り、試合を行う事を新しく始めた。この混成チームを「フューチャーズ」と名付けた。
「フューチャーズ出身者には銀次くん(現楽天)や角中くん(現ロッテ)などがいたね。中でも印象のあるのは銀次くん。彼はキャッチャーとして入団したけど、送球に苦手なところがあり出場機会がなかなか無かったのです。でもフューチャーズでの試合で捕手以外でも出場し、打撃が開花したんです。そこから自信をつけて、1軍に駆け上がった代表的な選手ですね。今やチームの中心選手になり、日の丸まで背負う選手になりましたね。」
「今までの事務局の仕事では考えられないことをさせてもらいました。様々な新しい試みや、フーチャーズの選手が成長していく姿を近くで見ることができ、嬉しかったですね。」
そこにはすごく嬉しそうに話す杵渕さんがいた。
今の立場(セ・リーグ統括)になってからは、ペナントレースが開幕し、無事に終わらせることが1番の使命なのだという。
「昨今は誰も如何ともし難いことですが、気象状況などで試合がすべて消化できるか、ポストシーズンまでに順位は確定するかなどでヒヤヒヤしています。しかし、各球団の試合挙行などの協力もあり未消化なく日本シリーズまで送り出せていることが何より嬉しいことですね。」
大変な姿を近くで見ていた私にはこの言葉の意味が痛いほどわかった。
聞いていいのか、またそれを書いていいのか迷ったが、今回はあえてこのことに触れてみた。
2017年のクライマックスシリーズファーストステージ第2戦、阪神-DeNA戦(甲子園)のことについてだ。
ん? となる方もいると思うが、「雨の中のクライマックスシリーズ」と言えばわかる方もいるのでは。この続きは後編で書こうと思う。
取材・文/元NPB審判・坂井遼太郎