アメリカンフットボール(以下、アメフト)選手として活躍しながら、富士通で働いている中村輝晃クラークさん。日本大学卒業後、同社の社会人チーム『富士通フロンティアーズ』のワイドレシーバー(WR)として、8年間で7度Xリーグ(日本社会人アメリカ…

アメリカンフットボール(以下、アメフト)選手として活躍しながら、富士通で働いている中村輝晃クラークさん。日本大学卒業後、同社の社会人チーム『富士通フロンティアーズ』のワイドレシーバー(WR)として、8年間で7度Xリーグ(日本社会人アメリカンフットボールリーグ)の決勝に進出し、4度の優勝とリーグ年間優秀選手にも選出。2017年シーズンの決勝では、19年ぶりとなるレシービングヤード記録を更新し、MVPに輝いた。今回は、そんな彼に現在に至るまでの競技人生を振り返ってもらいながら、どのようなデュアルキャリアを実践しているのかを聞いた。

取材・文/佐藤主祥

生まれてから小学校5年生になるまで、フランスで育った中村さん。両親共に日本人ではあるが、仕事の都合で渡仏し、11歳まで過ごした。だが、父親が亡くなったことをきっかけに、日本へと帰国。中学校は、海外帰国子女や在京外国人の受入れを行っている東京の九段中学校(2006年より中高一貫校化)に入学した。

中村さんは、家の中では日本語、外ではフランス語と使い分けていたため、帰国後も日常会話には困らなかったという。とはいえ、フランスで通っていたのは現地校。ひらがなや漢字といった日本語の読み書きには、相当な苦労があった。

このまま受験シーズンに突入すれば、高校進学すら危うい。そんな時、中村さんの運動能力を評価していた担任の教師が、アメフトの強豪校である駒場学園への同部見学を提案。だが、当時はK-1やPRIDEといった格闘技が流行っていたこともあり、中村さんは“柔道かレスリングをやりたい”と志願。それでも担任教師は、幼少期から取り組んでいる選手が多い2つの競技より、高校からでも始めやすいアメフトを推薦。母親からの後押しもあり、アメフト部への入部を条件として、駒場学園に進学することを決意した。

はじめは乗り気ではなかったものの、実際にプレーするにつれ、徐々にアメフトの魅力に引き込まれていく。勉強で悩んでいたことも忘れ、一心不乱にフィールドを駆け回った。

「アメフトって、実際にやってみるとすごく面白い!選手同士がぶつかり合ったり、ディフェンスをかいくぐって走り抜けたり、タックルしたり、キックをゴール内に蹴り込むプレーもあったりと“本当に魅力があるスポーツ”だと感じました」

高校3年間は主にディフェンスバック(DB)のポジションでプレー。2年目から出場機会が増え始め、春に関東大会に出場。しかし、その後は卒業するまで都大会を勝ち上がることができず、夢のクリスマスボウル(※全国高校アメリカンフットボール選手権大会決勝戦)への切符を手にすることは叶わなかった。

高校卒業後は、大学アメフトの名門・日本大学へ進学。ポジションをディフェンスからオフェンスの得点源となるワイドレシーバー(WR)に変更。”ポジション転向当初は本当に下手でした”と語る中村さんは、パス捕球能力を磨き続け、大学2年時から徐々にスターターとして、起用されるようになる。

そして、大学2年次の2008年に開催されたヨコハマボウル(※東西対抗戦)で、ターニングポイントが訪れる。対戦チームである関西学院大学は、前年の甲子園ボウル(※全日本大学アメリカンフットボール選手権大会決勝戦)で敗れた因縁の相手。日本大学にとってリベンジマッチとなるこの一戦で、中村さんは逆転のタッチダウンを決め、チームを勝利へ導いた。試合のMVPに輝き、一気に注目を浴びることになった。

「大学1年時の甲子園ボウルはベンチだったので、この一戦に対してそこまで『リベンジしてやる!』っていう気持ちはなかったんです(笑)。当時は、試合で結果を出すことに必死でしたから。しかしMVPを取ったことで“これからは恥ずかしいプレーは見せられない”と、選手として覚悟ができました。一つ一つのプレーに、責任を持ち、取り組む意識が芽生えました」

ヨコハマボウル以降、さらにパフォーマンスを上げていった中村さん。試合での結果は自信へとつながり、アメフト選手として一気に成長を遂げていった。 大学卒業後、2011年から大手IT企業の富士通に入社。同社の強化運動部である社会人アメフトチーム『富士通フロンティアーズ』に入部した。卒業前には、同チームの他にも社会人アメフトチームからのオファーもあったという。それでも選手としての所属先に富士通を選択した。その決め手は何だったのだろうか。

「高校、大学で一度も日本一になったことがなかったので、とにかく頂点を目指せるチームに行きたい気持ちが強かった。富士通は当時、良い選手が集まってきている最中だったので将来性も感じましたし、自分と同じく日本一になった経験がないチームだったので、自分自身が選手として”貢献して勝ちたい”と思えたのが大きな決め手でした。

加えて、富士通は企業チームなので、社員として仕事をしながら選手として活動できる。クラブチームだと別の会社に就職をする必要があるので、はじめから“チーム”と“会社”が一つになっている富士通に魅力を感じ、入ることを決めました」

日本のアメフト界にはプロリーグがないため、社会人からは企業集合体の社員選手だけで構成する企業チームか、多種多様な職業を持つ選手が集まるクラブチームのどちらかでプレーすることになる。

「大学卒業後に日本でアメフトを続けるには、他に何かしら仕事をしなければ食べていけません。チームを所有する企業の元で働くのか、関連のない企業で働くのか。どちらにせよ、みんな純粋にアメフトが好きだからこそ、働きながらでもプレーし続けるんです。」

競技人生を続け、アメフトで日本一になるべく“デュアルキャリア”を体現することを決めた中村さん。入社後は、富士通の宣伝部門に配属。しかし、入社1年目からスポーツと仕事を両立することの難しさに直面する。

「会社の仕事を覚え、働くことは本当に大変でした。当たり前ですが、最初は分からないことばかりだったので、本当に“日々勉強”でした。競技においても、大学までは週6日間練習をしていましたが、仕事もしないといけないので、週3日間という短い時間で仕上げないといけない。そういった慣れない環境での日々にストレスを感じてしまっていて…。心身ともにすごく疲労感がありましたね」

それからしばらくは、仕事に対して悩みを抱え、社内における自分の役割を見失っていた。そんな時、当時の上司から、中村さんに対してこんな言葉が投げかけられた。

“仕事をしっかりこなすのも大事だけど、君の場合はそれだけではない。富士通フロンティアーズで活躍している中村輝晃クラークがうちの部にいる。それにより、周りの社員は元気がもらえて刺激になる。それが、本当に大事なこと”

結果を残すことが『大きな役割』。上司の言葉で、中村さんの悩みは吹っ切れた。

「アメフトは“今の状況で自分は何をすることができるのか?”というのを見つけることが、すごく大事なスポーツ。もちろん試合に出て活躍することをみんな目指しているんですが、一つのチームとして動く中で、たとえ試合に出場できずに、自分がベンチに回されたとしても何ができるのか。ふてくされて終わるのではなく、スターターで出ている選手のサポートであったり、他の準備であったり、何かしらできることが必ずある。それを見つけられるかどうかが重要です。

それは、会社の中でも同じこと。仕事はまだまだ未熟でも、選手として活躍することができる。チームを勝利に導き、結果として会社を盛り上げることができれば、それが僕の徹するべき役割。そこに気がつくことができました」

自分がやるべきこと、自分にしかできないことを見つけ、その役割を全うすることを決めた中村さん。富士通の看板を背負って戦い、試合に勝ち続けることで、会社を一つにすることができる。会社の“顔”として、大きな仕事を遂行し続けている。(前編終わり)

(プロフィール)
中村輝晃クラーク(なかむら・てるあき)
1988年9月生まれ、フランス出身。11歳までフランスで過ごし、空手・サッカーや乗馬など様々なスポーツに挑戦。日本に帰国後は、高校入学と同時にアメリカンフットボールに出会う。日本大学を卒業後、富士通に入社。正社員として働く中、アメリカンフットボールチーム『富士通フロンティアーズ』に所属。Xリーグ4度の優勝に貢献している。

※データは2019年8月22日時点