試合当日の朝は、ろくに眠れぬまま、空が白むのを迎えたという。「目がずっと冴えていて。本当に……純粋に、本当に試合することが楽しみだったので」 西岡良仁は言葉どおり、本当に純粋にうれしそうな笑みをこぼした。試合後のオンコートインタビューでも…

 試合当日の朝は、ろくに眠れぬまま、空が白むのを迎えたという。

「目がずっと冴えていて。本当に……純粋に、本当に試合することが楽しみだったので」

 西岡良仁は言葉どおり、本当に純粋にうれしそうな笑みをこぼした。試合後のオンコートインタビューでも、そして試合から約1時間後の会見でも、彼は再三、この日の対戦相手を「ヒーロー」と形容する。



自身のヒーロー錦織圭から勝利を手にした西岡良仁

「勝敗は、あまり気にしていなかった。僕のヒーロー相手に、ベストを尽くそうと思っていた」

 それが、コートに立つ23歳のチャレンジャーの、迷いなき無垢な思いだった。

 対する西岡の「ヒーロー」には、胸に抱える、もう少し複雑な感情があっただろう。

「やりにくさと……楽しみな気持ちもあったし。練習などは近くでは見てきたけれど、対戦は今までなかったので。(試合前の気持ちは)両方ありました」

 それが、西岡との対戦を知った時の、錦織圭の偽らざる胸中だ。

 錦織は、これまでも西岡の試合となれば、コートサイドまで足を運び、観戦することも少なくない。盛田正明テニスファンドの支援を得てフロリダに渡った西岡は、自分の切り開いた道に続く、もっとも身近な後輩のひとりでもある。

「よっしー(西岡)はIMGアカデミーで一緒に練習してきた仲なので、がんばってほしいという思いは誰よりも強い」

 西岡に対して錦織は、そんな兄貴分的な視線を向けてきた。相手との駆け引きを楽しむかのようなメンタリティに、「俺と似てるな……」と、温かい共感の笑みをこぼしたこともある。

 同時に、2年前のインディアンウェルズ・マスターズで西岡が快進撃を見せた時は、試合を見ながら「あれだけスピンをかけてしぶといプレーをされると、相手としてはつらい。僕がやるにしても、タフな相手だろうなと感じる」と、対戦相手に自分の姿を重ねていた。

 どこか自分と似ていて、だからこそやりにくい--。ひとりのテニスプレーヤーとして見た時には、西岡はそんな存在だった。

 このような両者のメンタリティの差異は、初対戦のコート上で、プレーとスコアにも映し出されていく。

 ウォームアップ時に、自身に向けられる歓声に軽く手をかざして応じる西岡に対し、錦織の動きはどこか硬い。さらには、この2週間ほど錦織を悩ませている「呼吸しづらい」という体調面の不安要素も、彼の表情を曇らせていた要因だ。

 熱気が身体に張り付くような蒸し暑さのなか、長い打ち合いを避けたいとの思いがあったか、錦織に早いミスが目立つ。第3ゲームでは、2連続ダブルフォルトで招いた危機を、西岡につかれてブレークを許した。

 それでも、ゲームカウント4−5の相手サーブをブレークし一度は窮状を切り抜ける。だが、タイブレークではミスが重なり、6連続でポイントを落とす。最後もダブルフォルトが飛び出し、第1セットを錦織が失った。

 第1セットで、リードしながらも錦織にブレークされた時、西岡にはあらためて強くした思いがあった。

「一瞬でも引いたら、ブレークされる。リスクを背負ってでも攻めなきゃダメだ」

 それは、ここ最近トップ選手たちの戦場に身を置く西岡が、身を持って実感してきたことである。同時に、彼が錦織を近く見るなかで、「僕も、もっとうまくなりたいところ」と感じてきた点でもあった。

 相手のコート上でのポジションや、気持ちで引いた瞬間を見極め攻める戦略眼と、その際のプレーの正確性--。それら錦織から学んだ勝者の哲学を、西岡は第2セットでも実践する。

 第7ゲームでは、錦織がサーブを入れに来るのを読み切ったかのように、踏み込みバックでリターンウィナーを叩き込んだ。ブレークした直後のゲームでブレークバックをされるも、第10ゲームでは勇気あるボレーを沈め、勝利に大きく近づくポイントを自らの手で掴み取る。

 そして最後は、身体ごとボールにぶつかるようにバックのリターンを鋭く放つと、錦織の返球はラインを割っていく--。

 そのボールの行方を見届けると、西岡は被っていたキャップをはたき落とし、両手で顔を覆いながら、勝利の味を噛み締めた。

 試合直後に西岡を祝福した錦織は、会見時にもあらためて、「彼の成長をうれしく思う」と言った。

 自分の存在が、後進をはじめとする周囲の人々を強くするのは、”ヒーロー”の宿命とも言えるだろう。試合勘の欠如や、体調不良が不安材料なのは間違いない。それでも、来たる全米オープンに向け、「練習はいい形でできているので、しっかり準備したい」と威厳は失わなかった。

 一方の西岡には、歓喜に浸る間もなく、すぐに次の戦いが控えている。

 対戦相手は、新時代の旗手のひとりとして、西岡に危機感と刺激を与えた20歳のアレックス・デミノー(オーストラリア)。錦織との試合を通じ、「自分の成長に、またつながる」と確信したプレーの感覚と自信を携えて、躍進の風を掴む彼は、今登る山の頂きを目指す。