軽井沢高校、奇跡の物語(後編)前編はこちら>> 軽井沢町は長野県のなかでも特異な場所だ。言わずと知れた観光地で、外国からの観光客も多い。町にある幹線道路は高級外車が往来し、長野県であることを忘れさせる。そんな町に軽井沢高校はある。 現在…

軽井沢高校、奇跡の物語(後編)

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 軽井沢町は長野県のなかでも特異な場所だ。言わずと知れた観光地で、外国からの観光客も多い。町にある幹線道路は高級外車が往来し、長野県であることを忘れさせる。そんな町に軽井沢高校はある。

 現在、軽井沢高校の野球部の指揮を執るのは、35歳の佐藤真平。2010年から約3年間、臨時的任用期間に軽井沢高校で監督をした経歴がある。正式に県の社会科教諭として採用試験に合格し、丸子修学館(旧・丸子実業)に赴任して5年間、野球部の顧問を務めた。そして縁があり、この春に軽井沢高校に戻ってきた。

 今年の部員は3年生3人、2年生7人、1年生2人にマネージャーが2人。そして、この3人の3年生は、2017年4月に当時マネージャーだった小宮山佑茉(ゆま)さんから手紙を受け取って入部した選手たちだ。



今年の夏、初戦で松本美須々ヶ丘高校に敗れた軽井沢高校ナイン

 2年前、軽井沢高校野球部には監督と部長、そしてひとりの女子マネージャーしかいなかった。「なんとか野球部を復活させたい」「単独チームでの出場を果たしたい」と、マネージャーの小宮山さんは中学時代に野球をしていた新入生に手紙を送った。その熱意が実り、選手ゼロの野球部に8人の1年生が入って、グラウンドに活気が戻った。それにしても、選手ゼロの野球部に入るのには勇気がいったことだろう。主将の山崎佑作が当時を振り返る。

「選手がいないのは知っていました。先輩がいないという不安はありましたが、自分たちでチームをつくっていけるというやりやすさはありました」

 その夏、野球部員8人のほかにひとりの助っ人が加わり、軽井沢高校は5年ぶりに単独チームでの出場を果たした。結果は初戦でコールド負けとなったが、軽井沢高校の新たな歴史がスタートしたはずだった……。

 だが、夏の大会が終わると助っ人の選手が抜け、秋の大会は再び連合チームでの出場となった。さらに11月になると、4人の部員が辞めた。山崎は言う。

「辞める理由が『面倒くさい』とか、そんなことでした。引き留めてもしょうがないと……。たしかに、遠山(竜太)監督(当時)の指導は厳しかったですが、これが高校野球の練習かと。辞めていった部員は、野球がツラくなったのか、ほかの楽しいことに流れちゃったのかなと思います」

 遠山(現・屋代高校監督)が述懐する。

「夏まではマネージャーの小宮山がいて、単独出場というひとつの目標があって、誰も辞めなかった。でも秋になると、勉強と部活の両立の難しさや、手を抜きたいという選手もいて温度差が出てきてしまった。部員が減っていくなかで、残った選手たちを集めて聞きました。これまでのようにハードな練習をするのか、それとも仲間を引き留めるために緩くするか。そうしたら『来年、1年生が入学してくる時に恥ずかしくないチームでありたい』と。その言葉で私は吹っ切れました」

 2017年秋から翌年の春にかけては、再び北部高校と坂城高校との連合チームになった。平日は軽井沢で練習をして、週末は北部高校の飯綱グラウンドに通った。

 2018年の春に新1年生が入部したおかげで、その年の夏は単独出場。だが秋は、また部員が減り連合……というように、単独と連合を繰り返した。

 それでもまた今年4月には新入生も入り、この夏は単独での出場となった。

 そして、7月8日、小宮山マネージャーが思いを託した3人の最後の夏が始まった。初戦の相手は松本美須々ヶ丘高校。

「彼らは1年から出ているわけだから、試合慣れしているはずなのに……試合序盤にエラーするんですよ(笑)」

 佐藤は苦笑いを浮かべる。

 だが、致命的なエラーにはならなかった。試合は1点を先制したが、逆転され、同点に追いつくも、再び勝ち越されるというシーソーゲームとなったが、最後は1点が重くのしかかり、2対3で敗れた。

 それでも、6回の一死満塁のピンチではサードゴロをホーム、ファーストと転送しダブルプレーを完成。いつそんな守備ができるようになったのだろうと思わせる会心のプレーもあった。

 この春に異動によって軽井沢高校を去った遠山は、選手には知らせずスタンドから試合を見守った。

「内藤(淳次郎)は入ってきた時、フライが捕れませんでしたし、バットにボールが当たらなかった。山崎も星(尚也)も、中学時代は補欠でした。それでも『一生懸命やればホームランを打てる』とだましながらやっていたら、みんなホームランを打ちました(笑)。

 去年、彼らが2年の時も1対2と1点差で負けました。先制されて、追いついたけど、勝ち越された。今年はしっかり先制して、主導権を握った。そして逆転されても追いついた。去年より1点の重みを理解していましたし、ひとつ階段を上がったかなと思います」

 試合後の囲み取材で、山崎は泣いていた。

「去年も1点差で……悔いはないですけど、あと一歩でした。先輩たちがいたら頼ることもあったと思うけど、先輩たちがいなかったからこそ強くなれたと思う。人生って、野球よりも苦しいことばかり。この経験は成長の糧になると思います。小宮山さんには……負けてしまったんですが、やりきったので『ありがとう』と言いたいです」

 内藤は号泣していた。

「このチームでよかった。3年間、ものすごく楽しかった。初心者で入ったのに、(山崎)佑作たちは文句を言うことなく……4番も任されましたし、悔いなく終われました。小宮山さんには『ごめん、すみません』と。でも『やりきったよ。最後、いいゲームができました』と伝えたいです」

 監督の佐藤は、悔しさと満足感が入り混じっていた。

「こういう展開をイメージしていたんですが、力不足ですね。春先はエラーも出ましたが、よくぞここまで成長してくれました」

 そして佐藤にとっては、別の思いが交錯した試合だった。小宮山さんと一緒にポスターをつくり、グラウンド整備していた元監督の漆原伸也は2017年3月に別の高校に異動し、野球部の部長をしていたのだが、2018年の暮れに練習中に倒れ、帰らぬ人となった。佐藤にとって漆原は高校の1年上の先輩にあたる。

「漆原さんがあきらめずにつないでくれて、今の軽井沢高校がある。ご家族に『頑張ってるよ』と届けられればいいなと思っていました。私にとってこの夏は、その思いも強くありました。6月が漆原さんの誕生日で……その時は行けなかったので、ひと段落したらお墓参りに行きます」

 まもなく、夏の甲子園大会が始まる。地方大会を勝ち抜いた全国の精鋭たちが集まり、大観衆のなか、熱い戦いが繰り広げられる。長野大会の初戦で負けた軽井沢高校の存在など、知らない人がほとんどだろう。それでも佐藤は「こういう高校野球もいいもんですよ」と胸を張る。

 最後の夏を終えた3人の3年生は、大学、専門学校など、卒業後はそれぞれの道に進むという。彼らに、軽井沢高校での野球は何をもたらしたのだろうか。

「野球をやっていなかったら、楽なことに流れていたと思う。遠山先生が厳しい指導をしてくれて強くなれた。感謝しています」(山崎)

「中学で野球をやっていなかったので、チャレンジでした。ひとりで落ち込むこともあったんですけど、続けてきたことで挑戦する勇気が身についたと思う。チームスポーツの楽しさを知れたこともよかった」(内藤)

「周りから応援される喜びを知ることができた。つらいこともあったけど、自分が変わっていくのがわかるうれしさもあった。佑茉さんとは4カ月だけしか(一緒に)やっていないのですが、あの時とは変わったことを見せられたかな」(星)

 試合後、佐藤は3人にこんな言葉を贈った。

「4月にここに来て、遠山先生のあとを引き継ぎました。足りないこともあったと思います。それでも3年生は僕の指導についてきてくれて、一丸となって戦うことができたと思います。力を出してくれたのは3年生だった。よく頑張ってくれた」

 じつは、この日の朝6時半。小宮山さんは学校に来て、コールドスプレーを3人に手渡していた。「笑顔で頑張れ」と書き込んで——。

おわり

(文中一部敬称略)