その一瞬を追い求め、その一球にかける高校球児の夏がある。 勝者は笑い、敗者は泣く。たとえ敗れても、その戦いに充実感を覚え、笑顔で球児の夏を終える敗者もいる。彼らが追いかける「一瞬」は夏風とともに過ぎていく。そんな高校野球には、悲喜こも…

 その一瞬を追い求め、その一球にかける高校球児の夏がある。

 勝者は笑い、敗者は泣く。たとえ敗れても、その戦いに充実感を覚え、笑顔で球児の夏を終える敗者もいる。彼らが追いかける「一瞬」は夏風とともに過ぎていく。そんな高校野球には、悲喜こもごもの人間模様が映し出されるものだ。

 今夏の岩手大会決勝は、思いがけぬ大差での決着(花巻東12-2大船渡)となった。試合直後、敗れた大船渡が陣取る三塁側ベンチは涙であふれた。同時に、どことなく空虚感が漂っていた。彼らはどんな思いでこの敗戦を受け止めたのだろうか。



最後は登板することなく高校野球を終えた大船渡・佐々木朗希(写真左から2人目)

 決勝のグラウンドに大船渡のエースであり、4番打者でもある佐々木朗希の姿はなかった。前日の準決勝の一関工戦で129球を投じて完投した佐々木を、國保陽平監督は最後までベンチに置き続けた。甲子園出場がかかった決勝戦で、この夏の主役である佐々木を起用しなかった理由を國保監督はこう語った。

「故障を防ぐためです。連投、そして暑さ。投げたら壊れる、投げても壊れないという……未来を知ることはできないんですけど、プレッシャーのかかる決勝の場面で甲子園……すばらしい舞台が、決勝戦を勝てば待っているのはわかっていたんですけど、今までの公式戦のなかで一番壊れる可能性が高いと思い、私には(登板させることを)決断できませんでした」

 投手として試合に出ることのリスクの高さは理解できる。だが、佐々木は打つほうでもチームの中心選手である。野手での起用は考えなかったのだろうか。

「守備の際、急に100%の力でスローイングをしてしまう可能性があるので怖かった。それに投げた次の日に力強いスイングができるかと言えば、それは別問題。フレッシュな野手を起用したほうがいいと考えました」

 覚悟にも似た思いで佐々木の将来を守った行動を、「勇気ある決断」と称えた人は多かった。その一方で、春の県大会の初戦敗退から夏の甲子園を見据えてチームづくりをしてきたなかで、最後の最後に下した決断に疑問の声が上がったのも事実である。

 大船渡は夏の戦いに向けて、佐々木に次ぐ投手の育成に力を入れてきた。なかでも成長著しい大和田健人、和田吟太は、佐々木を温存した準々決勝の久慈戦をふたりで投げ切り、チームに勝利をもたらした。

 だが決勝戦、先発のマウンドを担ったのは、大会初登板となった柴田貴広だった。対戦相手の戦力を分析しての起用とも言えるが、失点をいくら重ねても大和田、和田がマウンドに上がることはなかった。その投手起用について、大船渡を応援するスタンドから激しいヤジが飛んだ。

 それだけに試合直後に感じた「切なさ」を思い浮かべるたびに、チームのあり方、チームづくりの難しさを、あらためて思い知らされた。

 奇しくも、大船渡の決勝の相手となったのは、菊池雄星(マリナーズ)、大谷翔平(エンゼルス)らを輩出してきた花巻東だった。チームを率いる佐々木洋監督にとって、今やメジャーで活躍するふたりの逸材との出会いは、”喜び”だった。

 とはいえ、佐々木監督に不安がまったくなかったわけではない。

「はじめは怖さしかなかったですね」

 大谷翔平との出会いを、佐々木監督はそう振り返ったことがある。秘めた才能を自らの指導によって潰してしまってはいけない。そんな不安と重圧……ときには”恐怖”にも似た感覚を佐々木監督は経験している。

 大谷は高校入学の時点で身長は190センチ近くあり、しかもまだ成長段階にあった。タテに伸び続ける体は希望の証でもあるのだが、同時に脆さも同居していた。わずかな衝撃や過度な負荷によって、大きなケガにつながる危険をはらんでいる。大谷の将来を考え、その歩みを慎重に見定めていった。佐々木監督の言葉を思い出す。

「ケガの治療も大事ですが、今は”予防の時代”になっていると思います。ほかの選手も同じようにしますが、体がタテに伸び続けていた大谷には、ケガをする前に……と思って、入学してすぐに体の検査をしました。すると大谷の体には、まだ骨端線(体の縦軸方向に関係する骨の先端付近の軟骨層)が残っていた。要するに、骨が成長段階にあると告げられました。いたるところに骨端線が残っていて、過度なストレスはかけられないということでした。ドクターやトレーナーと相談しながら、3年間の育成方針とトレーニング内容を慎重に考えて進めるようにしました」

 結果的に、大谷は甲子園の舞台を2度経験したが、ピッチャーとして勝利をつかむことはなかった。スポーツの世界に”たら・れば”が禁物であることは百も承知しているが、もし大谷に1年時から投手として経験を積ませていれば、また違ったストーリーになっていたかもしれない。

 経験値を高めた大谷が、高校野球における”勝てる投手”になっていた可能性は大いにある。さらに言えば、それこそがチームにとって最善であり、佐々木監督の「求めるもの」だったかもしれない。ただ、大谷と過ごした3年間を振り返り、佐々木監督はこう言うのだ。

「大谷の将来を犠牲にすることだけは、絶対にあってはならないと思っていた」

 たとえば2011年の秋の東北大会でも、その思いは貫かれた。翌年のセンバツ出場がかかった大会。勝てばセンバツ当確のランプが灯る準決勝でのことだった。光星学院(現・八戸学院光星)を相手に、花巻東は8回表までに2点をリードしていた。だが、最後は逆転されて涙をのんだ。ちなみに、大谷はケガの影響もあって、ピッチングを封印していた。

 結局は、東北大会を制した光星学院が明治神宮大会でも優勝し、東北地区に”神宮枠”が与えられ、花巻東はセンバツに出場することになるのだが、東北大会準決勝の采配に対して、佐々木監督は周囲から厳しい言葉を浴びた。

「試合終盤に大谷が投げれば勝てるかもしれないというゲーム展開。敗れた直後に周りの方から『なんで大谷を投げさせなかったのか』と言われることがありました。でも、私は最後まで彼をマウンドに送らなかった。秋の時点ではピッチャーとして使わない。そのことはチームみんなで決めたことでもありましたし、私自身も投げさせてはいけないと思っていました。

 本音を言えば、センバツ出場が見えたあの場面で、ピッチャーとして使いたかったという思いは少しあります。あとで聞いた話ですが、大谷自身も投げたかったと……。でも、我慢しました。大谷のゴールはここではない。当時、大谷はまだ2年生でしたし、ここで壊すわけにはいかないと。何度も自分にそう言い聞かせていました」

 だからと言って、大谷という大きな光だけを見つめていたわけではない。すべての”個”に光を照らし続けてこそ、真のチーム力が生まれる。そう考える佐々木監督には、チーム全体を見渡し、常に一人ひとりの個性を生かした指導が根底にあるのだ。もちろん苦悩や葛藤はあったが、佐々木監督はチームと大谷のことを常に同じ目線で考えた。

「すべては中庸だと思います。バランスが大事なんですよね」

 佐々木監督はそう言い続ける。

 チームの勝利と個の育成を偏ることなく追及する。その考えにいたったきっかけは、菊池雄星がいた時代にさかのぼる。菊池雄星という、それまで出会ったことのない逸材を預かることになり、佐々木監督は大いに悩んだ。

 スター選手がいるチームのあり方とは。

 互いの力を生かせるチームのつくり方とは。

 ほかの選手たちとの関係性をどう築くべきか。

 菊池が花巻東に入学したのは2007年。その前年、田中将大(ヤンキース)を擁する駒大苫小牧が3年連続で夏の甲子園決勝進出を果たし、決勝で斎藤佑樹(日本ハム)がエースの早稲田実に敗れるが、一時代を築いた。

 ある時、逸材の育成とチームづくりに悩んでいた佐々木監督は、当時の駒大苫小牧の監督である香田誉士史(よしふみ/現・西部ガス監督)に悩みを打ち明けた。その時、佐々木はチームの「バランス」が大切だということを香田から教わった。

 菊池が高校時代に積極的に取り組んでいたトイレ掃除などは、そのバランスと無関係ではなかった。常に見本となる行動を、佐々木は菊池に求めた。野球の技術だけではなく、人間として成長することの大切さを教えた。

 そうすることで周りの選手たちの思考や姿勢も変わり、スター選手が孤立することなく、真のチーム力が構築されていった。その根底にある強さこそが「バランス」であり、仲間とのよき関係性、つまりは「つながり」だった。

 今夏の岩手大会で、そんな「つながり」を感じたチームがあった。ベスト4まで勝ち上がった黒沢尻工だ。準決勝の花巻東戦で先発を担った石塚綜一郎は、序盤から快調なピッチングを続けるも中盤になって指にマメができ、本来の投球ができなくなってしまった。それでもマウンドに立ち続けたが、相手打線につかまり逆転を許す。結局マウンドは譲ったが、外野手、捕手として最後まで試合に出場し続けた。その気骨ある姿を仲間たちも感じ取っていた。

「おまえで負けたらしょうがない」

 チームを支え続けた大黒柱を中心に、黒沢尻工は最後まで「つながり」を持って戦い抜いた。勝負には敗れたが、試合後の選手たちの表情はどこか晴れやかだった。悔しさはあったに違いないが、最後は「やりきった」とチーム全員が思えたように見えた。決勝戦直後の大船渡のベンチとはまったく違う光景が、そこにはあった。

 仲間と一緒に甲子園へ——。佐々木朗希を含めた大船渡の選手たちは、大会を通じてそう語っていた。東日本大震災に直面し、それでも前を向いて進んできた岩手県沿岸部の人々にとっては、大船渡の35年ぶりの甲子園は”希望”だった。だが最後は、「やりきった」ではなく、「せつなさ」を残して夢は潰えた。

 大船渡の國保監督の決断は、佐々木朗希という特別な才能を守るためには最善の策だったはずだし、トレーナーの観点から言えば「正しい判断」だったに違いない。なにより佐々木が163キロという高校生史上最速をマークしたという事実は、本人の才能、努力はもちろんだが、大船渡だったからこそ実現できたのかもしれない。

 その一方で、「仲間と一緒に甲子園へ」というチームが掲げた目標は、本当に最後まで貫くことができたのだろうか。3年生にとっては高校生最後の大会であり、勝てば悲願の甲子園である。大船渡ナインのなかには「なぜ?」と思った選手もいたのではないか。もちろん、佐々木が投げたからといって花巻東に勝てるとは限らない。だが、「おまえで負けたらしょうがない」という言葉すら言えなかったのは残念でならない。

 選手の将来を守り、育成しながら、甲子園を目指すというのは並大抵のことではない。しかも約2年半という短いスパンですべてを実現させるとなると、さらにハードルは上がる。ただあくまで高校野球は部活であり、勝敗にかかわらず、チームで掲げた目標に対して選手それぞれが自分の役割をまっとうすることが、まず最優先されるべきではないだろうか。そして、選手たちが最善を尽くせるように支えていくのが指導者ではないか。

 選手を守るとは、甲子園とは、高校野球とは……いろんなことを考えさせられた岩手の夏だった。