レストランや観客席、オフィシャルショップが併設された北海道コンサドーレ札幌の練習拠点「宮の沢白い恋人サッカー場」へ、MF小野伸二はいつも練習がスタートする2時間前には到着している。もちろん、選手たちのなかで誰よりも早い。同じ敷地内にあるクラ…

レストランや観客席、オフィシャルショップが併設された北海道コンサドーレ札幌の練習拠点「宮の沢白い恋人サッカー場」へ、MF小野伸二はいつも練習がスタートする2時間前には到着している。

もちろん、選手たちのなかで誰よりも早い。同じ敷地内にあるクラブハウスでトレーナーに身体をケアしてもらうなど、入念な準備を積んでからグラウンドへ足を踏み入れる。

◆9月に37歳

オーストラリアの強豪、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCから加入したのが2014年6月。以来、ルーティーンとなっている小野の練習に取り組む姿勢に、四方田修平監督も目を細める。

「全員でランニングするときには先頭に立っている姿を含めて、日々のトレーニングの雰囲気を非常によくしてくれているので、助かっていますよね」

高校サッカー界の名門、清水商業(現清水桜が丘)から浦和レッズに加入した、1998年にスタートさせたプロのキャリア。9月に37歳となる小野にとって、コンサドーレは延べ7つ目の所属クラブとなる。

もっとも、けがの影響などもあって1年目はわずか7試合、2年目の2015シーズンも17試合の出場にとどまった。チームもともに10位に終わり、2012シーズン以来、遠ざかっているJ1昇格を果たせなかった。

もっとも、今シーズンは違う。27試合を終えた時点でJ2の首位を快走。2位の松本山雅FCに勝ち点6差をつけ、44得点はリーグ2位、19失点は同最少と攻守が抜群のハーモニーを奏でている。

「いま首位にいるということ自体が、1年目よりも2年目、2年目よりも3年目で多くのことが変わった証じゃないかと思いますよね」

自らが加入して以降のコンサドーレが遂げてきた変化を、小野もポジティブにとらえている。もっとも、股関節痛などを患ったこともあって、小野自身はなかなか試合に絡めない日々が続いている。

◆絶対的な“違い”

先発したのは東京ヴェルディとの開幕戦だけ。以降は7試合で途中から出場し、最長プレー時間も25分に甘んじているなかで、ピッチに立ったときには絶対的な“違い”を見せつけてきた。

たとえば、横浜FCのホーム、ニッパツ三ツ沢球技場に乗り込んだ11日の一戦。0‐1と1点ビハインドで迎えた後半30分に投入された小野は5分後、あわや同点のチャンスを演出している。

相手ゴールに向かって右側、約45度の位置で獲得した直接フリーキック。小野の右足から放たれたボールは鋭いカーブの軌道を描きながら、相手キーパー南雄太が飛び出せない空間を切り裂いていく。

ターゲットはファーサイド。リーグ3位となる13ゴールをあげている、187センチの長身FW都倉賢がジャンプした最高到達点と、文字通りピンポイントで一致する。

都倉の頭に弾かれたシュートが、ゆっくりとゴール右隅へと吸い込まれていく。逆を突かれた南は反応できない。誰もが同点と思った瞬間、横浜FCのDF西河翔吾が必死の形相で身体を投げ出してくる。

まさにゴールラインぎりぎりで、西河が頭でシュートをかき出す。この瞬間、雌雄は決したといっていい。獲得した3本のコーナーキックを担い、アディショナルタイムには約25メートルのミドルシュートも放ちながら、ゴールに絡めなかった小野は悔しそうに天を仰いだ。

「あれ(都倉のシュート)が入っていればチームの雰囲気も変わったと思うけど、相手もここまで上位を相手に勝ってきているチームなので、粘り強さというものはすごいものがあった。勝てなかったこともそうだけど、そういう相手に気持ちをもって戦えていなかったことがすごく残念だったと思います」

◆「10」で途切れた不敗記録

ジェフユナイテッド千葉、セレッソ大阪をともに逆転で下すなど、波に乗る横浜FCの闘志と執念の前に味わわされた黒星で、6月13日のV・ファーレン戦から続けてきた不敗記録は「10」で途切れた。

それでも、Jリーグだけでなく、オランダやドイツ、オーストラリアのリーグで長くプレーし、重厚かつ濃密な経験を積んできたベテランは、チームメイトへのメッセージとばかりに心配無用を強調する。

「この負けを特にネガティブにとらえる必要はないし、次の試合へ向けてもう一度気持ちを引き締めて、みんなが力を合わせてひとつになってプレーできれば、必ず勝ち点3を取れるはずなので。それだけを目指してやっていきます」

【次ページ 「8」という数字にこだわり】

レッズ時代から「8」という数字にこだわってきた。ルーキーイヤーの背番号「28」は2シーズン目から「8」に変わり、オランダの名門フェイエノールトでも4シーズン目から「8」番を背負った。

日本代表として出場し、史上初の決勝トーナメント進出を果たした2002年のワールドカップ日韓共催大会でも、「18」番を背負って左ワイドとして全4試合に先発している。

コンサドーレでも、もちろん「8」にこだわった。そのうえで、真っ白な気持ちでスタートしたいという想いを込めて、コンサドーレで過去に誰もつけたことのない「44」番を強く希望した。一の位と十の位を足せば、愛着深い「8」になる。

◆周りがいい意味で安心する

昨シーズン途中にコンサドーレで12年半もプレーし、背番号「8」がシンボルと化していたレジェンド砂川誠がFC岐阜へ期限付き移籍。オフには現役引退が発表された。

必然的に「8」番は空いたが、引き継ぐのではと期待された小野は今シーズンもチーム内で最も大きな番号を背負っている。おそらくは「44」番でまだ何も成し遂げていない、という思いを抱いているのだろう。

練習の前後に入念なケアを施しても、どうしてもけがが連鎖する状況が続く。出場試合数や出場時間が限られても、それでも四方田監督は「点を取りたいときには必要な選手」と全幅の信頼を寄せている。

「苦しいときにボールの預けどころになるし、彼が入ることでタメができる。何よりも、他の選手が真似できないようなパスが出てくる。いろいろな経験をしているので、どんな状況でも動じることなく冷静に判断ができるし、状況に応じていろいろな指示も出せるので、彼がピッチに入ったことで、周りがいい意味で安心するというのはありますね」

◆初戦を勝てなかったことが一番大きい

ちょうど地球の裏側にあたるブラジルでは、4年に一度のスポーツ界最大の祭典が開催されている。23歳以下の若手に3人のオーバーエイジを加えた手倉森ジャパンは、スウェーデンとの最終戦で勝利しながら、残念ながらグループリーグで姿を消してしまった。

振り返ってみれば、12年前の2004年、オリンピック発祥の地アテネで開催された祭典に小野も出場している。出場資格があった2000年のシドニー大会は、前年7月に左ひざ前十字じん帯を断裂した影響もあってコンディションが上がらず、無念の代表落選を余儀なくされていた。

迎えた4年後。A代表でも確固たるポジションを築いていた小野は、オーバーエイジとして山本昌邦監督に率いられるオリンピック代表に招集される。与えられた背番号はもちろん「8」だった。

しかし、パラグアイとの初戦で3‐4と苦杯をなめた日本は、続くイタリアにも2‐3で連敗。この時点でグループリーグ敗退が決定し、ガーナとの最終戦で一矢を報いるのが精いっぱいだった。

短期決戦で重要なウエートを占める初戦を1点差で落とし、攻守のリズムを狂わせてしまった展開は、ナイジェリアに4‐5で屈したリオデジャネイロ大会と酷似している。

パラグアイ戦では2ゴールをあげるなど、オーバーエイジとして存在感を放った小野は、ブラジルで悔しさを味わわされた後輩たち、特にオーバーエイジの3人を静かな口調でねぎらっている。

「短い期間でみんなと合わせなければいけない点で、プレッシャーというものはすごくあったと思う。それでも、オーバーエイジが入ったこととチームが敗退したことは別の問題なので。やっぱり初戦を勝てなかったことが一番大きい。それだけ大きな意味合いがある試合だったし、前半は均衡した展開のなかで、最後は1点差で負けてしまったことが、今回の大会を通して一番痛かったんじゃないかと思います」

【次ページ オーバーエイジが背負った十字架】

オーバーエイジが背負った十字架は、日本中が注目しているオリンピックの舞台で、オーバーエイジを経験している人間だけが理解できる。だからこそ、小野は安易なエールを送らなかった。

「僕が何かを言うよりも、それぞれがわかっていると思うし、プロとして何年も頑張ってきた選手たちなので。(やるべきことを)理解しながら、これからもやっていくと思っています」

◆気持ち切り替えゴールに絡む仕事を

プロならばすぐに気持ちを切り替え、オリンピック開催中も中断されることなく試合が続いているリーグ戦へ集中する。小野自身も12年前、オリンピックモードから2004‐05シーズンの開幕が目前に迫っていたオランダリーグへ切り替えて、最終的に自己最多タイとなる7ゴールをあげている。

そして、いま現在の小野はコンサドーレの一員として、目の前にある仕事に集中していく。コンディションをあげて、試合に絡む時間を増やして、ゴールに絡む仕事を数多く完遂していく。

描かれるベクトルの先にはもちろん5シーズンぶりとなるJ1昇格がすえられているが、ただ単に昇格すればいいわけではない、と小野は力を込める。

「やはりJ2とJ1とではレベルが全然違うので、最高峰のリーグにいけるようなメンタリティーや試合運びというものを身につけなければ、たとえ上に行ったとしてもまた1年で戻ってきてしまう展開になりがちなので。そうならないようなチーム作りができたらいいかなと。そのためにはカテゴリーを問わず、どんな試合でも自分たちが主導権を握れるようなスタイルを築いていかないと、結局はダメだと思うんです。もちろん悪い展開のときもあるけど、そこでも堂々とプレーして。身構えるのではなく、どんと構えて相手に来させるような、それくらいの気持ちをもってやっていきたいですね」

◆21歳にしてキャプテン

小野自身、レッズ時代の2000シーズンにJ2での戦いを経験している。21歳にしてキャプテンを任され、さまざまなプレッシャーと戦いながら、レッズを1年でのJ1復帰へと導いた。

翌2001年の夏から戦いのステージをヨーロッパへ移したが、J1を代表する強豪クラブへの道を歩んでいったその後のレッズの歩みはあらためて説明するまでもないだろう。

翻ってコンサドーレは、J2に降格することがこれまでに4度。特に2008シーズンと2012シーズンは、1年限りでのUターンを余儀なくされている。それだけに、自らの経験のすべてを伝えることで、チームに確固たる土台を築くことへの思い入れは強い。

ホームにモンテディオ山形を迎える14日の一戦で、年間42試合を戦う長丁場のリーグ戦も3分の2を終える。J1へ自動昇格できる2位以内をかけて、残り3分の1で必ずや正念場が訪れるからこそ、小野は日々のすごし方が大事になると、自らの経験からチームメイトへメッセージを送る。

「最後まで絶対に勝ち切るんだ、という気持ちは絶対に大事なことだし、もちろんけがなどを防ぐという意味でも、コンディションを整えていくところから大切になってくる。首位にいることを忘れてはいけないと思うけど、別に変なプレッシャーを感じることなく、もしチームとしてそういう(プレッシャーのかかる)雰囲気になっても、常に堂々としたプレー、堂々とした試合ができるような環境を、日々のトレーニングから作っていきたい」

◆同じ1979年生まれの稲本潤一とともに

横浜FC戦には6月に右ひざの前十字じん帯を断裂する全治8ヶ月の重症を負い、都内でリハビリを続けている日本代表時代の盟友、MF稲本潤一も観戦に訪れていた。

2014シーズン限りで川崎フロンターレを退団し、コンサドーレに新天地を求めた同じ1979年生まれの稲本とは、プロ18年目になって初めて同じクラブでプレーしている。

「イナ(稲本)も来ていたし、久しぶりにいいところを見せたかったけど。残念だけど、次へ切り替えてやっていきます。(コンディションは)ぼちぼちだけど、これからどんどん上げていけるように頑張ります」

稲本とともに、来シーズンのJ1のピッチで暴れるために。試合後にはベンチ外だったFWカズ(三浦知良)にお願いして、一緒の写真に納まったことを笑顔で明かした小野は、精かんな表情を浮かべながらうだるような暑さが続く夏と、その先に待っているはずの“豊穣の秋”を見つめていた。

小野伸二 参考画像(c)Getty Images

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