PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第2回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 1992年バルセロナ五輪で、陸上男子400mの高野進は、31歳で最後の五輪に挑んだ。前年の世界陸上東京大会では、1932年ロサンゼルス五輪100mの吉岡隆徳以来、世界大会59年ぶりにファイナリストとして世界大会の舞台に立った。そして、バルセロナの地でも高野は再び世界の舞台に足を踏み入れた。



バルセロナ五輪陸上男子400mで決勝に進出した高野進(写真左)

 高校3年生から始めた400mで大学3年時に日本記録をマークし、同年のアジア大会で優勝。83年には日本人初の45秒台となる45秒86を記録して、世界挑戦への意識をより強くした。

「世界挑戦を考えてから、200mより400m、という気持ちになった。自分自身が持っているエネルギーを充填して、残らず放出できるのはこれしかない、という気持ちがあった。400mは地味で苦しい種目だが、自分のポテンシャルをいちばん引き出してくれて、自分自身が有能であると思えるものだった」

 のちに高野が度々見せた、ゴール後に倒れ込んでしばらく起き上がれなくなるほど力を出し尽くす彼のスタイルは、そんな思いの表われでもあった。

 84年ロサンゼルス五輪で準決勝に進出した高野は、世界と戦うには44秒台は不可欠だと考え、86年アジア大会では同年世界ランキング19位の45秒00まで記録を伸ばした。そして「これが競技人生の集大成。最後の五輪」と考えて臨んだ88年ソウル五輪では、準決勝で45秒を突破する44秒90を出した。だが、第1組5位、全体では9番目のタイムで決勝進出を逃してしまった。

 ソウル五輪が終わった時、高野は競技を辞めようと思ったという。「記録も44秒台に到達したし、ずっと自分が描いてきた前/後半を1.5秒差以内で走るという400mのレースが完成した。これが限界だと感じたし、今から筋力やスピードアップを狙うのは非常に困難」と考えたからだ。さらに、82年に日本新を出して以来、国内では負け知らずというひとりだけの戦いを、これからも続けていくことへの苦しさも感じた。

 その半面、もう少し手を伸ばせば届きそうなファイナリストの世界に未練があったことも確かだった。88年には43秒29を筆頭に43秒台が3人いて、高野の44秒90は世界ランキング22位だった。だが、ソウル五輪後はドーピング検査が強化された影響もあって、89年と90年はトップが44秒台に止まり、高野がソウルで出した記録は両年とも11位に相当していた。

 再び挑戦すると決めた高野は、新たなレースパターンの取り組みを開始した。それまでの競技生活で体が覚えている400mのプログラムとスピード感を破壊するために、100mと200mに専念して走りの感覚を変えることに努めた。そして91年の日本選手権で、前半の200mをソウル五輪より0秒6以上速い21秒3で通過し、44秒78の日本記録を出したのだ。

 高野はソウル五輪で逃した決勝進出を大きな目標に据えた、8月の世界陸上東京大会。2次予選を44秒91と全体の2番目のタイムで通過し、準決勝第2組では前半を21秒0で突っ込む攻めの走りで3位。ついに、夢のファイナリストを実現した。

 決勝は45秒39で7位。だが、「今までの10数年間は、僕が世界に近づくのに必要な時間だったと思っている。400mに関しては、僕は他のプロ選手以上に研究もしているし、科学的トレーニングもして、彼らに負けないだけの努力をしている。後半をもっとしっかり走れるようになれば、メダル争いには食い込めると思う」と、さらなる進化も意識していた。

「今度こそ本当に最後の挑戦」と考えて臨んだバルセロナ五輪。「新たに前半型の能力を作りあげ、地元・東京の応援を追い風にできる世界陸上で決勝に残れたら、その自信を持って次のバルセロナまで行こう」と考えたその戦略どおりに進んできた。だが、そこからの道は厳しかった。

 シーズンイン直前の3月には肩を脱臼し、5月末には何とか45秒59まで戻したが、6月の日本選手権は渡辺高博(早稲田大)と同タイムでやっと勝つ状態だった。さらにその後はアキレス腱を痛めて練習ができず、本番へ向けたチェックポイントだけは無理やり集中して、合格ラインの結果を出していくのが精一杯だった。

「悲惨な状況で、31歳になって練習もほとんどできていなかったので、『高野は世界選手権までだったんだな』と周囲は誰もあきらめていましたね。でも、自分だけはあきらめきれなかったんです。シーズン序盤からズレがあったとはいえ、そのズレが最後の段階に来ているという手応えが自分の中にあったので…。過去2回の五輪に比べると体力は落ちているけど、世界陸上で決勝に残ったという事実もあるし、バルセロナは決勝に残れる、という変な自信があったんです」

 こう話す高野が決勝進出のためにいちばん意識したのは、2次予選だった(当時は現在のような3ラウンド制ではなく、1次、2次予選のあとに準決勝、決勝と続く4ラウンド制だった)。

「準決勝に残る顔ぶれはだいたいわかっているので、2組に分かれるうちのどっちに転ぶかで、決勝へ進出できるかどうかが決まる。確率は2分の1だけど、それを決めるのは2次予選の走り。そこで頑張ってベスト4に入っておかなければいけないんです」

 1年前の世界陸上では、全体2位のタイムでそれを実践できた。だが、バルセロナではできなかった。第2組で2位だったが、記録は45秒27。全体の9番目の記録での通過だった。そのため、準決勝は第1組で、カーブが急で不利な1レーンになった。だが、そのレースでは、2次予選の同じ組で高野に先着していたレドモンド(イギリス)が途中棄権。シーズンベストの45秒09で走った高野は4位に入り、世界選手権に続く決勝進出を果たした。

「冷静に見れば、普通に走って5番かな、と思っていたんです。何かラッキーがなければ決勝には残れないなと思ったけど、望みは持って走りました。だから、レース後に『運が良かった』とコメントしたんです」

 そう話す高野だが、2日後の決勝ではもう、それ以上で走る力は残っていなかった。いちばん外側の8レーンを走ったが、結果は45秒18で8位。

「あの五輪は本当に精神力だけでしたね。通常なら決勝に残っていない状況だったのに、よくあそこまで合わせることができたと思います。そこまでの道筋も含めた面では自分でもよく頑張ったと思うけど、バルセロナのレースだけを見れば、まだやり残したことがある……。

 あの試みをあと5~6年早く始めて、もう1回くらい(五輪に)挑戦できていれば、決勝の戦略をもうちょっと組めただろうな、と思います。周囲が想像以上に盛り上がって、すごく褒めてくれたことは素直にうれしかったけど、自分との温度差はちょっと感じましたね。そこまでの道のりには満足していたけど、結果は当然このくらいだという醒めた印象が僕にはありましたから。でも、それをレース直後に言うと『醒めている』と言われてしまうから、口にはしませんでしたけど」

 1年前の世界陸上では、念願のファイナリストになった喜びとともに、決勝では最後の直線に出るまでトップ争いをできたという満足感があった。だが、バルセロナ五輪では「新大陸を発見しようとずっと冒険をしてきて、それを発見して足を一歩乗せた途端に死んじゃった、みたいな感じで。そこで息絶えた」と笑う。

「でも、道だけは作った」と高野は言う。やがて時代を経て、何人もの日本人選手たちが世界の舞台へと進んでいった。その道を切り拓いたのは、間違いなく、高野進だったのだ。