PLAYBACK!オリンピック名勝負--蘇る記憶 第1回東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。◆     …

PLAYBACK!オリンピック名勝負--蘇る記憶 第1回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 1970年代終盤から、日本男子マラソンは世界をリードする勢力になった。瀬古利彦と宗茂・猛兄弟は、80年モスクワ五輪の代表で「メダルは確実」と期待されたが、日本選手団の不参加決定により、その強さを見せつけるのはかなわなかった。それ以降も日本男子マラソンはメダルに手が届かなかったが、92年バルセロナ五輪で、ようやく悲願のメダルを手にすることとなる。



森下広一が壮絶な優勝争いを繰り広げた、1992年バルセロナ五輪男子マラソン

 大会前の注目は、指導者になった宗茂が育ててきた旭化成勢だった。なかでも谷口浩美は前年の世界陸上東京大会で日本初の金メダリストとして大きな注目を集めていた。バルセロナのコースは海沿いにあるマタロをスタートして最後は60m以上も登ってモンジュイックの丘にある競技場にゴールする厳しいコース。夕方スタートだが暑い中のレースになるため、東京で暑さへの耐性を証明していた谷口が有利と見られていたのだ。

 また、前年の世界陸上で1万mに出場していた森下広一は、91年2月の別府大分毎日マラソンで88年ソウル五輪4位の中山竹通を39km過ぎで振り切り、当時の初マラソン日本最高記録の2間08分53秒で優勝。バルセロナ五輪代表選考会だった92年2月の東京国際マラソンでも再度中山と対決し、2時間10分19秒で優勝して代表になっていた。

 5月に五輪マラソンコース下見を行なった際に、谷口は「粘り的な部分では日本人に向いているかもしれない」と話し、森下は「コース的には谷口さんに向いているかもしれないが、坂が長すぎる(笑)。坂に入った時に余力を残しているかどうかと、精神的に勝つ気になれているかどうか、が僕の勝負です」と話していた。

 だが、谷口は準備期間中にアクシデントに襲われた。5月末には右足の疲労骨折が判明して、約1カ間入院。それでもその期間中は「スタミナを落とさないために、今やれるのはこれしかない」と、治療時間を含めて7時間は動きっぱなしでリハビリに努め、スタートラインに立つことを可能にしたのだ。

 アクシデントはそれだけではなかった。8月9日の大会最終日に行なわれたレースは、最初の5kmが16分03秒の超スローペースで始まり、20㎞通過も1時間04分00秒で大集団になっていた。その中での22km過ぎの給水所。谷口は左足を上げようとした瞬間にカカトを踏まれ、さらに背中をポンと押された。シューズが脱げた、とわかった瞬間には前に体が飛んで転倒していた。

「一瞬、裸足で走ろうかとも考えた」という谷口は、石畳もある硬い路面のことを考えて引き返してシューズを履き、再び走り出した。「あの時に前を見たら20~30人いたので『こんな大集団なのか』と驚いたが、やめようという気持ちにはならなかった」と言う。

 20秒ほどのロスだったが、転倒したタイミングが悪かった。レースが動き始めた時だったのだ。

 その時森下は「23kmあたりで、ベッティオル(イタリア)が出た時はチャンスだと思った。追いかけるふりをして並ばずに、そのまま自分のペースで行く気でした。でも、ちょ
うどその頃に谷口さんがコケていたんですね」と谷口の状況を把握していなかった。

 25kmまでのペースは、その前の5kmより20秒上がる15分22秒。谷口はトップと7秒差の11位で25㎞を通過したが、その時の無理がたたって、その後は15分台後半までペースを落としてしまった。

 26kmを過ぎてから集団は一気に絞られ、金完基(韓国)を含めた3人の先頭争いになった。33km過ぎからは、15分20秒のペースを守った森下と黄永祚(韓国)の一騎打ちになった。

 黄は、この年の2月の別府大分毎日マラソンで2時間08分47秒の自己記録を出して2位になったほか、91年の九州一周駅伝にはアジア選抜の一員として出場し、2回走ってともに区間賞を獲得した選手だ。森下も「監督たちから、『力は同じくらいだ』と言われていたし、後半に粘ってくる自分と似たタイプだということはわかっていた」という。

 モンジュイックの丘を登り始めた時、森下は2人の優勝争いになったと確信し、最後までくらいついてトラック勝負に持ち込もう、と考えていた。1万mの持ちタイムは、1分以上森下が上回っていたからだ。

 だが、一瞬で勝負をつけられてしまった。40km直前の短い急な下りで黄がスパート。その後の緩やかな下りから平坦になるコースでジワジワ差を広げられた。「いつもだったらあきらめないけど、あの時は『アーッ、離されていく、離されていく』という感じでした」と森下は振り返った。結局、その後の急な上りも含むコースで森下はその差を22秒に広げられて、2位でゴールした。

「ずっと続いていた上りが終わったところでふっとひと息入れたというか、気持ちが切れた瞬間があったんです。そこで行かれた」と森下は悔やんだ。

 そこは急な上りが続いたあとに少し平坦区間があり、突然3~4mの急な下り坂があってカーブしながら平坦区間につながる場所だった。5月の下見に同行して実際にモンジュイックの丘を走った時は、苦しい中でその急な短い下りを迎えた瞬間に安堵してしまいそうで危ない箇所だと、個人的に考えていた。

 のちに谷口にそのことを話すと、彼は「僕もそう考えていて、森下と競り合っていたらあそこで仕掛けるつもりでした。だから、それは(下見の時に)森下には言えないでしょう」と笑顔で話していた。

 森下にとっては、瀬古利彦や宗兄弟など世界を牽引してきた選手たちですら届かなかった金メダルを獲得するチャンスでもあった。宗茂監督は「調子のピークが来るのが1週間早すぎた」と悔しがった。森下も「帰ってきて言われたのは、『残念だったな』とか『惜しかったな』ばかりで......。有森裕子さん(女子マラソン銀メダル獲得)とは大違いですよ」と苦笑した。

 ソウル五輪後はアキレス腱痛などにも苦しみ、前年の世界選手権東京大会では途中棄権だった中山は、30㎞手前から先頭集団に離された。その後は3位争いをしながら3番目でスタジアムに入ってきたが、最後はフライガング(ドイツ)のラストスパートに屈して2秒差で4位となった。かつてのような爆発力はなかったが、底力を見せる走りだった。

 転倒した谷口は8位。のちに谷口はこう話してくれた。

「スタジアムに入った時に1位がまだゴールしてなかったから、アレっと思ったんです。『差はまだ400mだけじゃないか。まだやれるな』という気持ちでゴールできた。それで素直に『こけちゃいました』という言葉が出たのでしょうね」

 日本勢3人の入賞は、日本やアメリカがボイコットした80年モスクワ五輪の際に、ソビエト連邦が3、4、5位になったことに続く五輪史上2回目の記録(当時)だ。金メダルには届かなかったが、日本男子マラソンの強さを見せる結果となった。

 その後、森下は故障に苦しんだ。その間、牽引者不在となった日本男子は低迷期に陥っていく。

「誰か(ライバル)が出てきてくれたほうが良かったかもしれませんね。出てこないので、安心して動き出すのが遅れてしまった。でも94年アジア大会の時に、優勝した黄選手が僕の写真を部屋に貼っていると言っていたのを聞いて、刺激されました。そんな風にライバル視されているのに、自分はそんな資格もないだらしない生活をしている。恥ずかしいなって。それに応えて本気にならなければいけない、と思いました」

 96年アトランタ五輪の選考レースが始まろうとする95年秋にこう話していた森下だが、結局は五輪選考会には出場できなかった。彼は3戦2勝、2位1回という結果を残して、マラソン人生を終えた。