群馬県館林市に水野守という高校1年生がいる。サッカーを小学3年生で始めた少年のポジションはボランチで、学校の部活動…

 群馬県館林市に水野守という高校1年生がいる。サッカーを小学3年生で始めた少年のポジションはボランチで、学校の部活動でもプレーしていたが、一昨年11月に自分でチームを立ち上げた。


サラマットFCの旗を掲げる子どもたち

 photo by Kimura Yukihiko

 チームの名前は、FCサラマット。一風変わったこのワードは、アラビア語で「平和への願い」を意味する。守は日本で生まれ育った在日ロヒンギャ民族の二世で、すでに日本国籍を取得しているが、スハイルというロヒンギャの名前も持つ。

 チーム名の由来はまさに今、祖国ミャンマーで起きていることに対する祈りの気持ちからつけた。メンバーの数は16人、そのうち14人がロヒンギャ民族で構成されている。館林は日本における唯一にして最大のロヒンギャコミュニティがあり、現在、約200名の人々が暮らしている。

 ロヒンギャ。それは2017年2月に国連の調査団が「世界で最も迫害されている民族」と報告書を上げたミャンマーのラカイン州に暮らすイスラム教徒のことである。

 その迫害と差別は、1962年にネ・ウィン将軍が起こした軍事クーデターから続いていたが、ビルマ(当時)政府が1982年に制定した「ビルマ市民権法」によって、決定的なものとされた。

 同法はミャンマー国内で定住する135の民族を国民と定義するも、その中からロヒンギャを排除。国籍を剥奪してバングラデシュからの違法移民としてしまったのである。

 民族浄化にお墨付きを与えるような法律によってその存在を否定されたロヒンギャは、これより現在に至るまで、まさに「合法的」に迫害され続けている。約400万人と言われる総人口の内、およそ300万人が国外へ脱出している。父祖の土地に住みながら無国籍者にされ、難民として追われるという世界でも稀有な例である。

 日本にも命がけで逃れて来たロヒンギャの人々がいるが、その人々がたどり着き定住したのが、館林市である。現在は、行政もムスリム(イスラム教徒)であるロヒンギャの子どもたちのために中学校にお祈りの部屋を作り、給食にはハラルフードを加えようとする動きさえ見せている。ラマダン(断食期間)のときには、教員も「疲れたら早退してもいいよ」と声掛けをしたりしている。

 外国人居住者に向けての避難訓練なども含めて、こういった館林市市役所の取り組みは評価されているが、これに至るまでのロヒンギャの人々の努力も見逃せない。

 守よりもほぼひと回り、12歳年上の長谷川留理華(ロヒンギャ名:ルインティダ)というロヒンギャの女性がいる。留理華が2001年に両親と共に館林に来た頃は、日本語がわからないこともあり、中学校では壮絶なイジメにあった。昼食の弁当ひとつ取ってみても文化的な背景から、毎日がカレー食である彼女に対して「だからあいつは肌の色が違うんだ」等の残酷な言葉が浴びせられた。

 留理華の年齢は、突然無国籍にされてしまった世代である。ミャンマーにいた12歳のとき、国民カードをもらいに行った役所で『ここはお前たちカラー(ロヒンギャに対する侮蔑語)が来るところではない』と怒鳴られて追い出された記憶がある。祖父母も両親も取得できていた身分を保証する国民カードが1989年に回収されて、それ以降、ロヒンギャの子息には発給されなくなってしまったのである。

 留理華は、祖国での迫害、そして新天地として来た日本での偏見と差別に遭い、心が折れそうになったが、屈することなく、日本の高校を卒業し、現在は日本国籍を取得して通訳として活動している。

 館林に来たロヒンギャ難民の一世の人々は(留理華は二世であるが)、イスラム教徒に対する偏見を払しょくするように活動を展開し、積極的に地域活動にも参加していった。そして、在日ビルマ・ロヒンギャ協会を立ち上げると、後から頼って来るニューカマーの同胞にも「ここで生きていくのならば、法律を絶対に守れ」とコンプライアンスを説いた。結果、町の人々の大きな信頼をかち得ていった。

 守の父親、水野保世(ロヒンギャ名アウンティン)もまた一世として、血のにじむような努力を重ねて日本で生活していく信用と基盤を築いて来た。「私は日本国籍を取ったのだから、日本のために働く、そして税金を納める。でも、ロヒンギャであることをひと時も忘れない」と言うのが口癖だった。

 守は大好きなサッカーをしていく中で、アイデンティティについて目覚めていった。日本の学校へ通いながら、家庭ではミャンマー語とロヒンギャ語を父親から熱心に学んだ。父は、「我々はロヒンギャであると同時にミャンマー国民でもあったのだから、この二つの言葉を忘れてはいけない」と常に言っていた。

 そんな守たちのコミュニティを震撼させる事件が、2017年8月26日に勃発した。ラカイン州でミャンマー国軍と仏教系右派団体によるロヒンギャに対する軍事掃討作戦が始まったのである。

 丸腰に近い民間人に対する迫害は凄惨を極めた。ロヒンギャの人々は、家を焼かれ、殺害され、ラカイン州を追われて隣国バングラデシュへの脱出を余儀なくされた。その数は2年間で約76万人。

 深刻なのは、女性に対するミャンマー軍人による組織的レイプが盛んに報告されていることだ。筆者は、クトゥパロンの難民キャンプで性被害に遭った女性たちを取材した。レイプされた時間や場所は異なるが、手口はマニュアルがあるかのようにすべて統一されていた。昨年にノーベル平和賞を受賞したコンゴのデニ・ムクウェゲ医師が言う、軍による「性的テロリズム」である。

 性的テロリズムは、精神的に人々を追い込んで恐怖心を植えつける。通常兵器と違って予算も関わらない上に女性自身が背負い込むプライバシーの問題もあり、事実を不可視の状態に追いやる極めて非人道的な戦争犯罪である。

 この性被害にあったロヒンギャの女性たちに対する調査とメンタルケアを続けているチッタゴン在住のラツィアという女性弁護士によると、国連NGOなどが把握している性被害者の数は、クトゥパロンキャンプだけで約4000人に及ぶと言う。

「なぜミャンマー国軍は性的テロを行なうのか?」という問いに対してラツィアは「過去1978年にもラカイン州を襲った民族掃討作戦(=ナーガミン作戦)があったが、そのときにも性被害に遭った女性たちは土地に戻って来なかった。性暴力は異民族を追い出す上で大きな効果があったのです」それでミャンマー軍は味をしめたと言われている。

 ビジネスで成功した守の父は私財を投げうって、バングラデシュの難民キャンプの地に子どもたちへのための学校を建てている。難民の約半数の30万人が未成年なのだ。

 教育は生きていく術としてだけではなく、憎悪の連鎖を断ち切るためにも重要だとの考えが父にはあった。暴力を否定し、ミャンマー政府を憎むのではなく、いつかミャンマー国籍を再取得して帰国するために学校の必須科目はミャンマー語だ。そんな父の姿を見た中学生の守が館林でサラマットFCを作ったのは、日本国籍者としての義務を果たしながら、ロヒンギャとして生きていこうという決意の表れでもある。

 周囲の仲間に声をかけると、レイハットミライのように日本の大学に通いながら、趣旨に賛同して参加してくれた先輩も現れた。レイハットミライは、ジュニアユース時代は全国大会にも出場し、高い評価を得た選手だったが、勉学の道を選んでサッカーは途中で辞めていたのだ。

 守のサラマットFCは群馬県リーグに登録している。しかし、まだ公式戦には出場ができていない。それにはロヒンギャの人々の法的地位が異なっているという理由もある。守のように日本国籍取得者もいれば、人道配慮による特別許可、永住者、また難民申請中で仮放免という選手もいる。

 仮放免は、日本の入管行政の理不尽さがすべて詰まったような制度だ。日本で生まれ育ち、何の罪も犯していないのに、就労が禁じられ、日本語しか話せないのにいきなりの収容や強制送還の恐怖に晒されるのだ。自由に県外に移動することもできないので、サッカーの盛んな埼玉のチームとの県外試合もままならない。

「やっぱり残念ですね。仮放免の人は働くことも禁止されているから、せめてサッカーだけでも一緒にできればと思ったんですが、なかなかまだ試合もできなくて」(守)

 誰も好きで祖国を離れるわけではない。難民は言うまでもなく被害者である。いわんや政治亡命した先で生まれた10代の少年にいったいどんな罪があるというのか。

 ミャンマーに対する最大の投資国である日本政府は、ロヒンギャの問題については極めて冷淡な態度を取ってきた。ロヒンギャという民族は存在しないとするミャンマー政府に対する忖度ゆえに、外務省のホームページにはその民族名はなく、「ラカイン州のイスラム教徒」と呼称されているだけである。

 ちょうど守がチームを作った2017年11月に開かれた国連総会では、ミャンマー政府のロヒンギャに対する軍事行動の停止を求める非難決議が出され、欧米、中東国を中心とした135カ国の賛成により採択されたが、ミャンマー政府の後ろ盾である中国は反対、そして日本政府もまたこの採決を棄権したのである。館林のロヒンギャコミュニティの人々の落胆は、痛々しいほどであった。

 守にとっては、自らのルーツであるラカイン州から入って来るニュースは耳を覆いたくなるものばかりだ。その上、アイデンティティの否定さえ重なり、サッカーの試合もうまく組めない。16歳の少年にとっては酷い日常が続いていた。

 しかし、6月、守にとって、飛びあがりたくなるような朗報が飛び込んで来た。日本代表の元キャプテン長谷部誠がユニセフの親善大使としてバングラデシュの難民キャンプを訪問してくれたのだ。



難民キャンプで子どもたちとサッカーに興じた長谷部誠。 日本ユニセフ協会 tetsuya.tsuji●写真

 長谷部は6月5日にクトゥパロンキャンプを訪れると雨の中、泥だらけになりながら、ロヒンギャの子どもたちと一緒にボールを蹴った。同行した泉裕泰駐バングラデシュ日本大使は、その様子をこんなふうに伝えて来た。

「長谷部親善大使は、大変誠実なナイスガイでした。『ロヒンギャ問題』の本質をよく理解して下さっていましたし、その場で覚えた現地語で話しかけたりして、すぐに溶け込んでいました。雨の中、泥まみれのグラウンドで子どもたちとサッカーをしている姿は本当に画になりました」

そして、長谷部自身はこんな言葉を発信している。

「今回初めてバングラデシュに足を運ぶことができ、バングラデシュの方の人間的な温かさに非常に感銘を受けました。今回ロヒンギャ難民のキャンプに足を運ばせていただき、世界最大の難民キャンプのスケールに驚いたとともに、今後解決しなくてはならない多くの課題、問題を目の当たりにしました。本問題をバングラデシュとミャンマーだけの問題だと思わずに、世界中の人々が本問題をしっかりと直視し、サポートしていくこと、そして何よりロヒンギャ難民の方々が将来に対して、未来に対して、少しでもしっかりとしたビジョンを描けるように、僕自身として微力ながらもサポートし、今後も支援活動を継続していきたいと強く思います」

 2月には、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジェリーもUNHCR大使として同じロヒンギャ難民キャンプを訪ねてくれてはいたが、守にとっては長谷部が、自分たちの民族の名を出してくれたことが、何よりもうれしかった。

「僕は本当に日本代表が大好きなんですよ。応援してるし、ロシアW杯のコロンビア戦は大迫(勇也)選手と香川(真司)選手のゴールに興奮しました。何と言うか、長谷部選手の言葉で力が湧いて来ました。ないものにされていた僕らの存在をしっかりと見てくれている」

 サッカー選手が政治の枠を超えて、人道支援の分野でできることは多々ある。しかし、踏み込んで動く日本人選手は決して多くはない。長谷部のアクションは、バングラデシュのキャンプだけではなく、日本のロヒンギャたちをどれだけ勇気づけたことか。難民の二世の子どもたちもサッカーをプレーする場所があれば、その存在は認められ、そして友人もできる。

 ロシアW杯でいったいどれだけ多くのヨーロッパの難民二世、三世の選手が活躍したことか。ベルギーにロメロ・ルカク(マンU)やアドナン・ヤヌザイ(レアル・ソシエダ)、フランスにキリアン・エムバペ(PSG)、スイスにグラニト・ジャカ(アーセナル)とジェルダン・シャチリ(リヴァプール)の存在がなければ、いったいどんなチームになっていたであろう。スウェーデンは出場しなかったが、言うまでもなくズラタン・イブラヒモビッチ(LAギャラクシー)はマルメで育ったボスニア難民二世だ。サッカーの分野に限らず、難民を受け入れることは負担を増やすことではなく、逆に英知と豊かさをもたらすのだ。

 県下でも有数の進学校に通う守の夢は、サッカーをやりながら、医者になることだ。「長谷部選手に夢に向かう気持ちをもらいましたよ」

 7月下旬、サラマットFCは同じくミャンマーの少数民族である在日のシン族、カチン族のチームと対戦することが決まった。未来の日本代表がそこにいるかもしれない。日本におけるミャンマー少数民族ダービー。応援に行こうと思う。