先日、高校の硬式野球部員数が発表されたが、昨年の15万3184人から9317人減となり、夏の地方大会参加校は減少の一途をたどっている。学校によっては、部員不足は深刻な問題だ。 有望な中学生を集めて甲子園優勝を目指すトップレベルの高校も…

 先日、高校の硬式野球部員数が発表されたが、昨年の15万3184人から9317人減となり、夏の地方大会参加校は減少の一途をたどっている。学校によっては、部員不足は深刻な問題だ。

 有望な中学生を集めて甲子園優勝を目指すトップレベルの高校もあれば、日々の部活の一環として地方大会に臨む高校もある。神奈川県立上溝高校は、後者の学校であり、そこで指揮を執るのが平林明徳である。



現在、部員13人とマネージャー3人の上溝高校野球部。下段中央が平林監督

 3年前に、あるメディアの仕事で、平林に話を聞いたことがあった。それ以来、「また(練習を)見に来ませんか」と、たびたびお誘いを受けていた。人懐っこさと、好奇心旺盛なところが魅力の監督である。

「神奈川に面白い監督がいるんだよ」

 出会いは、法政大の元監督で江川卓(元巨人)が在籍した4年間で5度の優勝を果たした故・五明公男(ごみょう・きみお)からの紹介だった。

 五明が「もともとは公務員で、夢を捨てられなくて高校野球の監督になっちゃったんだよ。日大三の小倉(全由)監督にも教えを乞いに行ったらしいよ」と言う。普通の公立校の監督がアマチュア球界の名将と接点がある。どんな人物なのだろうと思ったのが、そもそものきっかけだった。

 まず、平林の異色ぶりは転職組だったところにある。しかも、プロ野球経験者とか、中学野球の監督とか、野球に関わりのあるところからの転職ではない。平林の前職は、外務省の行政職事務官である。

「広い視野で海外との関わりを持てる仕事をしたいと思っていました」

 平林は中央大を卒業して、外務省への入省を果たす。20年近く勤め、アジア局でカンボジア和平協議に携わったり、IAEA(国際原子力機関)関連の予算担当主任という要職も任された。そのまま勤め上げれば、国の根幹を支える人物になっていたであろう。

「小さい頃からの夢を叶えてみたい。そんな思いをずっと捨てられなかったんです」

 そう振り返る平林の野球の原風景は、生まれ育った信州・安曇野にある。生家の裏に南安曇農業高校(南農)があり、平林の幼少期の夏には長野県大会で準優勝するなど、甲子園出場はないが県内では実力校として知られていた。進路は、必然的に南農に決まった。

 桑田真澄、清原和博らと同じ“KK世代”のひとりとして甲子園を目指したが、2年夏にベスト8、3年夏は1勝に終わり、高校野球生活を終えた。

 社会に出てからの野球は、外務省内のチームに所属して草野球を楽しむ程度だったが、それでも物足りなさを感じたことはなく、このまま時間が過ぎていくはずだった。

 だが、ある元プロ野球選手との出会いが、平林の人生のベクトルを大きく変えることになる。

 大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)や阪神タイガースなどで活躍した長崎慶一氏が経営する焼肉屋に偶然行き、やがて懇意になる。そして長崎が中学生のシニアチームの監督になると、「コーチにならないか」と誘われ快諾。

 そこで子どもの頃に刷り込まれた記憶が蘇る。「高校野球の監督がしたい」。そのためには、高校の教師になるしかない。平林は中央大の聴講生となり、日大の教職の通信課程を履修した。

 一方で、野球の勉強を積むべく、いろんな人を訪ね歩いた。思い立ったらすぐに動くという平林の好奇心旺盛な性格が大いに発揮されていく。

 まず、知人のすすめで日大野球部の門を叩いた。当時の監督である鈴木博識(ひろし/現・鹿島学園監督)は「気軽に来いよ」と快く受け入れてくれた。当時の日大には松坂世代の村田修一(現・巨人コーチ)や館山昌平(現・ヤクルト)など、錚々たるメンバーが在籍していた。仕事が休みの週末にグラウンドに行き、一緒に走ったり、ノックの手伝いをした。

 また日大の部員の中には、PL学園の元監督である中村順司の息子や、明徳義塾での捕手だった井上登志弘がいた。「名将と呼ばれる方に野球を教えてもらいたい。こんなチャンスを逃す手はないですね」と言って、中村や明徳義塾の監督である馬淵史郎と会う橋渡しをしてもらった。

 ただの公務員がアマチュア球界の重鎮たちに会いに行き、野球を教えてもらう。その探究心には驚かされる。ちなみに、これらは高校野球の監督になるどころか、教師にもまだなっていない時の話である。

 外務省ではフットワークの軽さが求められた。それと、自らの社交的な性格が多くの野球人とのつながりを生み、のちに選手たちとのコミュニケーションを深める時にも生かされている。

 平林が最初に教員採用試験に合格したのは岐阜県だった。赴任した高山工にはすでに野球部監督をはじめスタッフがおり、サッカー部の顧問を任されることになった。このままでは、自分の夢を叶えられないと思った平林は、あえて高校野球が盛んな神奈川県に照準を定め、見事合格を果たす。

 そして2012年、社会科教諭として最初に赴任したのは県立の相模田名高校だった。1年目は前任の監督がいたため部長を務め、2年目に念願叶って監督に就任した。

 アマ球界の重鎮たちから教わった指導力と持ち前の行動力を生かし、チームを強化。最初の夏から2勝、2勝、3勝、2勝と結果を残し、DeNAのスカウトが「あのショートの子はプロでやっていける可能性がある。育成枠で獲れるかも」と評価をしてくれた選手もおり、足を運んでくれたこともあった。

 そして、今の上溝高校に転任したのは2017年。相模田名と上溝はほんの数キロ離れただけの位置に学校があり、以前から練習試合などで交流があった。

「田名にいた時から練習試合をしたことがありましたが、上溝は元気がないなぁという印象でした。監督になった時は部員が8人で、練習にベルトをしてこない生徒がいたりして……何から手をつけようかなと思いました。なにより部員がいないので、大会には助っ人を探して出ました。中学時代に野球をやっていた子を調べて。彼はバイトをしていたのですが、大会だけは出てくれとお願いしました」

 それから2年が経ち、現部員は1年生2人、2年生9人、3年生2人、3年生のマネージャーが1人、1年生のマネージャーが2人。今年の1年生は全部で242人(男子114人、女子128人)の生徒がいるが、野球部に入ったのはたった2人しかいなかった。相模田名では3学年で部員が40人ほどいたので、現状の部員不足は平林にとって大きな悩みである。

「ここの生徒はガツガツしていないんです」と平林は言う。もともと女子校で、部活がそれほど活発ではないという学校特有の気風があるのは否めない。そこを教師が積極的に動いても、浮いてしまうことが予想される。だけど、周りを気にして野球部が盛り上がらないのも寂しいという葛藤が平林にはある。

 赴任した時に新校舎ができ、それまであったプレハブ教室が取り壊されて、グラウンドが広く使えるようになった。普段はサッカー部と共用しているが、調整すれば練習試合も可能だ。

 練習は、午後4時頃から完全下校の夜7時まで続く。部員が少ない分、バッティング練習では打てる本数が多く、ノックでも受ける数が多いのが救いだ。

 とはいえ、監督としての悩みは多い。昨年6月、ある2年生部員が辞めたいと言い出した。

「練習試合で気持ちが入っていない感じがしたので、呼んで話し合ったんです。すると、『3年生には夏まで残ってくれてと言われたので続けますが、それが終わったら辞めたい』と。3年生に相談しても『戦力として必要だから使ってほしい』と言う。私自身は、試合で使うのは嫌だったのですが……夏はチームとして同じ方向に気持ちが向いていないと厳しいですね」

 今も日々勉強という平林だが、あるベテラン監督とこんな話をしたことがあった。

「『野球は教育の一環で、人間形成の場』と言われたんです。『社会に通じることを忘れるな』とも。でも、すんなり理解できなかったんです。私はサラリーマン経験があるので、むしろそうしたことを言わないほうが……と思っている部分があったんです」

 相模田名の教え子が、軟式野球部のある物流会社に正社員として就職できたそうなのだが、人柄を買われて採用されたのだという。社会性、協調性は自然と身につけていた。

「こっちが口うるさく言わなくても、できていたんだなと。やっている時はわからないけど、しっかり対話できる人間になっていた。うれしかったですね」

 それを教えてくれた監督の言葉が正しかったことを、この時に実感できたという。監督と生徒ではなく、人と人。その思いは、指導者になった時から変わらない。

 神奈川大会を間近に控えたある日の練習で、内野手を集めてセカンド牽制時のサインを決めさせていた。

「去年決めたのに忘れちゃっていて。キャッチャーがサインを出して、ピッチャーがセカンドに投げようとしているのに、ベースには誰もいない。アウトにならなくても、サインプレーがあるだけで走者のリードも変わってくるよと」

 小さな平林の嘆きが続く。

「勝負への執着が薄いというか、こだわりが小さい。こういうチームは勝たないと変わらない。公式戦の1勝、それも夏の1勝が次につながると思うんです」

 外務省時代の経験は、監督になってからも生かされている。外務省では素早い決断力が求められた。すんなり決着すると思われていた案件が一晩で覆ったり、世界の紛争は待ったなしだ。柔軟に対応するためには、常に大きなアンテナを幅広く張っていなければいけない。

「グラウンドの隅々まで視線を送って、生徒の変化に気づかないといけません。それに外務省時代の僕がそうだったのですが、褒められたら仕事もやりやすいですし、結果も出ることが多かったんです。甘やかすとは違いますが、褒めて選手を伸ばしてあげたいと思います。萎縮しながらやっても楽しくないじゃないですか」

 異色監督の指導を受ける選手たちはどう思っているのか。キャプテンの吉井啓悟が言う。

「監督は選手としっかり向き合ってくれます。外務省を辞めて、自分たちの野球に情熱を費やしてくれているなんて、ありがたいです」

 また2年生の内野祐稀は、平林が上溝に異動したことを知り、入学してきた生徒だ。

「私立では試合に出られるかわからなかったし、大学でも通用する野球を教えてくれる監督のいる公立校に行きたかった。田名から上溝にいい監督が来たということを中学の監督が調べてくれて、ここに来ました。選択は間違っていませんでした。平林先生は人脈もあって、私学の強豪校と練習試合を組んでくれる。すごい先生だと思います」

 取材当日は、相模田名時代の教え子が平林を募って上溝の練習の手伝いに来ていた。母校ではない高校の練習に来るというのは、珍しい光景だ。

「田名で最後に負けたあと、『監督、マウンドに来てください』と言うので行くと、選手たちが胴上げをしれくれたんです。監督冥利につきる瞬間でした」

 練習が終わってからの円陣で、平林が口を開いた。

「最後の最後まで粘ってほしいんだ。ギリギリまであがくべきだと思うよ。さぁ、大和南に向かおうよ!」

 奇しくも、初戦で戦う大和南は、相模田名時代の2013年に監督として夏の予選で初勝利を挙げた因縁の相手である。

「また勝って、波に乗りたい。上溝は過去、夏の一大会で3勝したことがないので、3つ勝つことが目標です。そしていつかは、ハマスタ(横浜スタジアム)で試合がしたいですね。甲子園はその先です」

 51歳の元外務省監督の夢を叶えるチャンスは、定年まであと9年残っている。

(文中敬称略)