梅雨真っ盛りの霧雨は強風にあおられ、薄い煙のようになって地上に舞い落ちていた。 その日、先発に入った元スペイン代表…
梅雨真っ盛りの霧雨は強風にあおられ、薄い煙のようになって地上に舞い落ちていた。
その日、先発に入った元スペイン代表FWフェルナンド・トーレス(サガン鳥栖)だが、試合前のウォーミングアップから身体が重かった。ポストからのシュート練習では、利き足の右足でシュートを放つも、バーの上へ大きく吹かした。降りしきる雨のせいだったのか。
先発メンバーの発表が場内アナウンスで流れると、トーレスは敵軍の選手にもかかわらず、温かい拍手を送られていた。愛され、尊敬されているのだろう。ゴールゲッターとしてアトレティコ・マドリード、リバプール、チェルシーなどビッグクラブで大暴れし、スペイン代表では欧州選手権で2度優勝し、W杯も制覇した。その経歴を考えれば、不思議ではない。
ウォーミングアップの最後にもう一度、トーレスはくさびに当て、シュートを打っている。左に流れてきたボールを、身体を開いて右足で打ったが、左ポストに当たって外れた。タイミングを外すシュートだったのかもしれないが、不器用にも映る。うつむいた表情は硬かった。

川崎フロンターレ戦に先発したものの、シュート0に終わったフェルナンド・トーレス(サガン鳥栖)
<自分はこんなものではない>
その苛立ちが一挙手一投足から伝わってくる。先日、8月23日のヴィッセル神戸戦限りの現役引退を発表したのも、英雄的選手として晩節を汚すべきではないという幕引きか。
ゥォーミングアップが終わると、トーレスは小さく首を振って、静かにまぶたの上の雨を拭った。
7月7日、等々力陸上競技場。サガン鳥栖は雨の中で、王者、川崎フロンターレに挑んでいる。
「トーレス!」
敵地にもかかわらず、そう呼びかける声は少なくなかった。チームが空港に降り立ったときには、出待ちのファンも目立って多かったという。世界的ストライカーのラストまでのカウントダウンが始まっているからだ。
「なぜ、トーレスを出さないんだ?」
海外メディアからはクラブに対し、”トーレス擁護”のメールなども寄せられているという。スペイン大手スポーツ紙の『as』は、前節の清水エスパルス戦を「トーレスは映画のように! 引退発表後、2カ月ぶりの先発。いきなりの2発でチームを救う!」と、動画付きで報じた。清水戦では、たしかに見事な2得点だった。
しかし、トーレス本人が誰よりも、自分の中にあるズレにもがいているはずだ。
川崎戦もコンディションは不調で、チーム戦術にフィットしていない。トーレスのプレッシングは強度が弱く、プレスバックで川崎のボランチ、大島僚太や田中碧を潰すべきところも、簡単に前へ運ばれてしまう。また、ハイボールか、足もとのポストワークか、裏か、FWとして攻撃意図を明示できていない。ボックス内でも、右からボールを受けて収めながら逡巡し、シュートもパスもできずにボールを失った。左からのクロスは収めきれず、目の前を流れた。
シーズン途中に、金明輝監督がルイス・カレーラスに代わって指揮を執るようになって以来、鳥栖は戦術練度が劇的に向上している。各選手のやるべき仕事が明確化された。川崎戦も序盤の攻撃時は2バックでサイドバックは両サイドに大きく開き、GKがリベロになって相手のプレスを回避するなど、相手に応じた戦術策が奏功している。
その結果、トーレスの戦術的不具合が目立つようになった。
カレーラス時代のトーレスは「守備はしなくていい。ゴールのために体力セーブを」と、戦術外の存在でよかった。ただ、トーレスは先発を続けたにもかかわらず、チームは連戦連敗で、10節まで無得点。ところが監督交代後は、出場時間が激減したにもかかわらず、皮肉にも2得点を記録している。トーレス本人にはストレスがあるとしても、選手は各自が戦術的仕事を果たすことで、結果を出せるものなのだ。
過去のJリーグでもワースト10に入るかもしれない監督に「甘やかされた」ことで、世界的ストライカーの感覚が鈍った、とも言える。
川崎の選手は「トーレスは動きも鈍くて、どうしたのかなと」と洩らしていたが、現状は厳しい。
結局この日、トーレスは1本もシュートを打てなかった。前半は沈黙したまま、53分で見切りをつけられた。プレー内容を考えれば当然の交代命令だったが、本人は憮然とした表情だった。不甲斐ない自分に対する怒りだろう。
<自分はこんなものではない>
世界を舞台に躍動したストライカーの誇り高さが、雨の中でくすぶっていた。
試合は0-0の引き分けに終わっている。
「引退を発表してからも、トーレスは誰よりも筋トレはやっていて、真剣に取り組んでいるのはすごいですよ」
トーレスと交代でピッチに立った鳥栖のFW豊田陽平は明かしている。
「身体のケアもあるんでしょうけど、チューブを使ったり、トレーナーから送られた画像なんかを見ながらやっていますね。選手として、ケガと向き合ってきたからでしょう。練習メニューとかも、トレーナー以上に知っている感じです」
トーレスのプロフェッショナルとしての姿勢は、少しも変わっていない。8月の神戸戦まで、リーグ戦は残り6試合だ。