栽弘義の遺伝子を引き継ぐ男、沖縄水産・上原忠の挑戦~中編前編はこちら>> 沖縄水産の栽弘義(さい・ひろよし)監督に憧…
栽弘義の遺伝子を引き継ぐ男、沖縄水産・上原忠の挑戦~中編
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沖縄水産の栽弘義(さい・ひろよし)監督に憧れて高校野球の監督になろうと決意した上原忠は、 沖縄県の教員採用試験に合格。夢への第一歩を踏み出した。ところが、上原が最初に配属されたのは熱望していた高校ではなく、まさかの中学だった。中体連の軟式野球部の監督では、どれだけ頑張っても選手たちを甲子園へ連れていくことは叶わない。
失意の上原だったが、結果的にはこのことが吉と出る。なぜなら上原が中学の監督だったおかげで、栽野球を直に学ぶことができたからだ。

豊見城、沖縄水産を率いて春夏通算17回甲子園出場を果たした栽弘義監督(写真右)
中学に赴任してすぐ、上原は中学生の選手たちを連れて、突然、沖縄水産の栽監督のもとを訪ねる。
「このたび、与那原中学校の教員になりました上原忠です、栽先生と同じ糸満の出身です」
強面で知られる栽監督は、ただでさえ近寄りがたい。とくに面識もなかった栽監督のところへ、同郷の後輩だというだけで挨拶に出向くというのはたいした度胸である。上原は栽監督に「お前はなんだ」と怒られながらも、平然と、それでもやや遠慮がちに遠くから練習試合を眺めていたら、「おい、こっちへ来い」と呼ばれた。そして隣を指差して「ここへ座れ、いいから座れ、ここで見ておきなさい」と指示された。上原はこう言って笑った。
「いや、まさかですよね。だって、栽先生がバリバリのときですよ。味方の選手も相手の選手も、それこそ相手の監督だって栽先生の前では緊張しているというのに、僕は隣に座らされて、先生の采配を間近で見せてもらったんです。しかもサインを出す前に、『このサインにはこういう意味があるんだよ』と口に出してくれる。で、『いいか、コイツは必ず失敗する、失敗させるためにサインを出すんだ、ほら、失敗しただろ』と言って、失敗させておきながら、その選手をボロクソに叱っていました……いやはや、なんて人なんだと驚きましたね(笑)」
それから上原は栽監督のもとへ通うようになる。
「遊びに来ました」
「またお前か、バカ野郎」
乱暴なやりとりも、じつはこれが糸満流の挨拶に過ぎない。
「いいか、あのランナーの動き見てろよ、あれじゃ、アウトになるぞ」
「見てみろ、この守備位置じゃダメだろ、なぜだかわかるか」
「アイツは何も考えてないから、次も同じボールに手を出すぞ、ほーらな」
栽監督はそうして上原に野球を教えた。いや、教えるつもりがあったのかどうかも、栽監督亡き今となっては確かめる術もない。同郷の、しかも中学の監督だからと、いつしか愚痴をこぼすストレス解消の相手になっていただけなのかもしれないと、上原は苦笑いを浮かべる。
「でも、僕はそれをすべて吸収しました。栽先生のマネをして、中学生に合わないと思ったらアレンジする。僕みたいに何にも持っていない指導者が無から有をつくるというのは大変なことなんですけど、マネしたものをベースに、省いて、加えて、減らしたりしているうちに、それをオリジナルにすることはできる。僕は栽先生の野球を盗んで、それを中学生の軟式野球に合うようにアレンジしながらオリジナルをつくり上げたんです。戦術、練習方法、愚痴のこぼし方まで(笑)」
与那原中で6年、長嶺中で6年。12年の間、上原監督はチームを何度も九州大会へ導き、やがては中体連(中学体育連盟)の野球専門部長になった。栽監督にとっても上原から得られる有力な中学生の情報は貴重だったはずで、栽野球を叩き込んだかわいい後輩にまさか、やがて甲子園への道を断たれることになるとは、この時点では想像もしなかったに違いない。
ずっと高校への異動を希望していたものの、中学から高校へ移るのは「宝くじに当たるより難しい」(上原)仕組みになっていた沖縄で、上原は1998年に長嶺中から中部商へ転勤することになる。つまり、栽監督の沖縄水産と、高校野球の舞台で相まみえるライバルとなったのである。
「いやいや、ライバルというレベルじゃありませんよ。甲子園で27勝もした栽先生と、中体連から上がったばかりのクソガキじゃ、相手にもされませんからね。ただ、中部商に行って役に立ったのは、沖縄中の中学の野球部の顧問の先生をすべて知っていたということです。一番の選手たちは栽先生のところへ行くんですけど、そこへ割って入って、違う視点から見たいい選手たちに入学してもらおうと動きました。中部商に行って最初の3年間は部長でしたが、その間、あちこちの中学校を回って、かなりいい選手たちに来てもらうことができたんです」
2002年、ついに夢だった高校野球の監督となった上原は、中部商を率いていきなり旋風を巻き起こす。新人監督ながら、中学野球での実績は十分な上、部長として声を懸けて獲得した有力な中学生たちでつくり上げたチームは地力があった。エースの糸数敬作(のちにファイターズ)を擁した中部商は準々決勝で嘉手納を、準決勝で沖縄尚学を下し、なんと決勝で、栽監督率いる沖縄水産と対戦することになったのである――。
(後編に続く)